バスにて京都駅からホスピスまで

長く続いた旱天が終わり、昨夜から今朝にかけて慈雨が畑や屋敷林を潤した。 畑では名残りのキヌサヤを摘み取り、はしりの茄子を捥ぎ取る。名残りのキヌサヤは鞘を捨て豆のみを炊き込み御飯にする。緑豆の彩り鮮やかな一餐である。はしりの茄子をみそ汁に仕立てて豆ご飯に添える。食後に雨に濡れて萎れたサツキの花がらを摘む。花柄摘みを終えれば梅雨の季節がやってくる。

昨日、ホスピスで暮らす友を40日ぶりに訪ねた。

彼の身体は病との闘いの痕をあきらかに遺していた。腕も足もやせ細り、皮下出血の痕は痛々しく、言語はいっそう不明瞭になり、眼の光も弱くなっていた。 二時間近く枕元にいて、むかし話を語りかけたり、持参した和菓子をほぐして彼の口に運んだりして過ごした。私の相手をするのに疲れたのであろう、彼がうとうと為出したのをしおに暇を告げた。

自力では寝返りもできなくなった彼に暇を告げても、病室を立ち去り難かった。次の機会が得られるかどうかもはや定かではない、今生の別れになるかもしれないと思えば、彼が眠るのを待って病室を出たいと考えるのである。

彼と向き合ってしまえば、何と云うことも無く普通に会話できるのだが《とはいえ、ほぼ一方的な会話だが》、見舞おうと思い立ち新幹線の乗客となってからしばらくは、重い気分が付きまとって離れないのである。彼が暮らすホスピスは東山山麓・北白川にある。京都駅を降りて急ぎタクシーに乗る気などしないから路線バスを待つのである。

バスは京都駅バスターミナルから烏丸通を北上し、歩道拡幅工事中の四条通を東進、さらに河原町通を北進、御池通を東進、鴨川を渡って川端通を南下、三条京阪、神宮道、岡崎道、永観堂前を経て、銀閣寺前から北白川通を北進して最寄りバス停に至るまでのおおよそ四十分くらいを、何を考えるとも無く窓の外を眺めながら過ごすのである。

この日は、京都駅から修学旅行生の一団が主な相客だった。車内を喧噪させていた若い一団は四条高倉停で下車したから静かになるかと思ったら、入れ替わりに別の修学旅行生集団が乗車してきたから車内の喧噪は変わらなかった。 彼ら彼女らが岡崎永観堂前で下車し静かになったバスは、十分も走れば目指すバス停に停車するのである。バス停から山裾へ向かう坂道を十分も上れば目指すホスピスに到着する。

車中で特に何かを考えたわけではない。少年少女の会話を聞くともなしに耳にしながらバスに揺られている小一時間が、心の泡立ちを押さえてくれるようである。 帰り道だって次はいつになるのか、機会が得られるのか、先のことは判らないと考えながら京都駅に戻り新幹線に乗るのである。思い返せば、杖をつきながらでも、まだ自宅で療養していた今年の二月末に、「お前に会えるのも、これが最後かも」と彼が思わず知らず述懐してから既に百日余りが過ぎたし、三ヶ月しか過ぎてもいない。

彼が密かに肺癌の手術を受けてから五年近くが経とうとしている。術後、小康状態を得ている時には、同窓の仲間とともに我が鄙里を訪ねてもくれたし、酒を酌み交わすこともあった。その彼が一昨夏に脳梗塞で倒れたと聞いた時は驚いた。欠かさず通院治療を受け体調を管理されていながら何故だと驚いたのである。 どうやら、抗がん剤治療の副作用が疑われると聞いたのである。 その後、歩行障害も言語障害も徐々に回復しつつあると見えていたのだけれど、昨年末に体調を崩してからは車椅子の世話になり、病床に横たわる身となった。

この五年のあいだに、彼の心境をまとめて聞いたことは無い。 折々の集まりなどの時に、「次は無いかも!」などと笑顔でもらすことはあったが、詠嘆も慨嘆も聞いてはいない。互いに古稀を越える齢ともなれば、病状は異なれども、病と闘うのは彼だけではないし、病を得て亡くなった同窓生もいる。察するに再会の都度、心中ひそかに一期一会と思い定めていたのであろうし、心の準備を整えていたのであろう。 現実にも、仕事を手仕舞いしたし、店舗兼自宅を処分し老夫婦の終の棲家とすべくマンションへ転居した。いわば身辺の整理も心残り無きように務めていたのである。

帰宅して、父母を介護しながら茫猿は何を考えていたのだろうかと、五年前の記録を読み返す。 五年前の一連の記事からつながる、さらに一年前の記事に出会い、当時はよく理解できなかった老いた父母の心境と云うものが、今や素直に腑に落ちてくる自分に気づかされる。《 艶蕗の花 投稿日:   》

そして昨日見舞った友のたった今の心境などというものは、自らがその場に立たねばとても計り知れないだろうと思う。自らに置き換えてみれば、恐怖におののく底なしの心を覗いて見る心地なのである。

筆者は自らを『茫猿』と称することもこの頃は好まなくなっている。それは「茫け猿」には遠かった頃、まだずいぶんと間があると思っていた頃と異なり、今や「茫け猿」を自覚せざるを得なくなったからだと思っている。 「そうかもしれない 命終三部作」をまた読み返している。以前に読んだのは2007年のことである。この八年間で受けとめ方が随分と変わったと思い知らされている。 《関連過去記事

認知症の妻を介護していたが、自らの健康状態が悪化したので、妻を老健施設へ入居させる。 自らは口腔底癌で呻吟しつつ、絶筆となる「そうかもしれない」を執筆している耕治人氏の日々が淡々と綴られている。 そして、「そうかもしれない」は次の一節で結ばれるのである。《1988.1.6  耕治人死去 その三ヶ月後に「そうかもしれない」刊行》

『点滴の身を忘れ、時の経つのも忘れ、いつか私はベッドの上に正座していた。 その私の体は、自然と《妻が入居する》BMホームがあると思われる方へ向いていた。』

《前回のホスピス訪問記録:ターミナルケア:

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