2017年1月1日である。昨日に変わらぬ今日ではあるが、年あらたまれば想いまた新しということなのであろう。吉屋信子の「初暦 知らぬ月日の 美しく」という句を引用して年頭のご挨拶を掲載したのは2000年のことでした。
それから、知らぬ月日を迎え送ること既に18年を数えます。「鄙からの発信」も記事更新数が2860号を超えました。書き流しを続けた「鄙からの発信」も今や旬をとうに過ぎてしまい、日毎ただただ由無し言を綴っているに過ぎないと思っています。本音のところでは閉じてもよいのだが、閉じてしまえば今此処にいるという茫猿の存在があやふやになってしまうような気がしているにすぎないともいえます。
今年の賀状は、昨年暮れに訪れた日本最南端のJR駅から眺める開聞岳と菜の花畑をテーマにしてみました。東シナ海から打ち寄せる波越しに眺める開聞岳は美しくそびえていました。手前のチョコレート色の岩は開聞岳が噴出した溶岩です。
時おりに晩年の母が言っていたことを思い出します。「来年どころか明日のことも判らない齢になったが、それでも今しなければならないことをしている。時期がくれば畑を耕し種を播き苗を植え、苗木を作ってもみる。」 その母のことばは、今を生き、生きているということなのだと、我が身に置き換えて納得できるようになってきた。昨年暮れの畏友見舞いも鹿児島市電踏破も、そういうことなのだと自ら納得している。
暮れから孫二人が帰省している鄙里は賑やかな正月です。カエデもケヤキもイチョウもすっかりと葉を落とし裸木になっていますし、昨年暮れに延び過ぎたモチの枝を払い木陰をつくるヒノキとスギそれにマキを数本切り払いましたから、雑木林は地表まで陽射しが差し込みとても明るくなっています。
半世紀以上も久しぶりに餅搗きをしてみましたし、落ち葉を集めて焚き火をして焼き芋をつくり、孫たちに鄙暮らしを味あわせています。孫の姉娘と二人で離れの二段ベッドに寝るという初体験もしました。時おり起きて上のベッドをのぞき布団をかけ直すというのも初体験です。晴耕雨読の閑かな日々を願うと賀状には記しましたが、賑やかというよりも騒々しい日も数日であれば好ましいかなと思っている2017年元旦です。
《2017/01/01 02:30 追記》
紅白終盤から、行く年来る年、そして「今夜も生さだ」を見終え、年越しを終え孫の寝るベッドの下へもぐり込む。小さな幸せいっぱいの行く年来る年、目覚めることができれば初日の出をここへ載せたい。《2017/01/01 06:45 鄙桜越しの日の出前》
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