標題は茫猿が好きな正信偈の一節である。正信偈とは真宗門徒が日々の勤行として読誦する、親鸞が著した「教行信証」の末尾に所収の偈文のことである。《長いこと、下書き保存されていた記事である。削除は勿体ないので、補筆してアップする。》
その下りは次の如くである。
報土の因果、誓願に顕す 往相・還相の回向は他力に由る
正定の因はただ信心なり 惑染の凡夫、信心発すれば
生死 即 涅槃なりと証知せしむ
《読み下し方は東本願寺・真宗の教えによる。解釈も同サイトを参照のこと》
「9条入門」と同時に求めた本に「生死の覚悟」と云う書があることは先々号記事に記したが、「9条入門」読了と前後して「生死の覚悟」も読み終えた。生死つながりで云えば、昨年末に買い求めた「親鸞と道元」(五木寛之・立松和平)がある。
親鸞が説く「生死即涅槃なりと証知せしむ」は、道元が説く「生死のなかに仏あれば生死なし」に通じるものがあると、五木氏も立松氏も云うのであろう。自らを高めんと務める自力救済も、阿弥陀の絶対力に全てを捨てて委ねると云う他力救済も、つまるところは同じなのではなかろうか。
この正信偈を五月の頃から、毎夕仏壇の前に座り詠み上げている。急に信心深くなったというわけでは無い。正座し香を焚き詠みあげることを滑舌リハビリと心得ているので有る。詠み上げてゆくのに声が出ていないなと思う夕べもあれば、声高く詠める日もある。正信偈がリハビリと体調の目安なのである。
※正面から向き合っても難解な書、何度も読み返すが、理解できない。
生死の覚悟(高村薫╳南直哉)、超越と実存(南直哉)、”問い”の問答(南直哉╳玄侑宗久)、正信偈の講話(暁烏敏)
それ程気楽に読めるわけではないが、形而上学的な記述が少ないので、
※暇潰しに何処からでも読む書
仏教が好き(河合隼雄╳中沢新一)、親鸞と道元(五木寛之╳立松和平)、まわりみち極楽論(玄侑宗久)、禅語遊心(玄侑宗久)
南直哉氏は「生死の覚悟」あとがきで、このように語る。 この年(61歳)になって思い返すと、時として精錬の果てに結晶したような思考と、一挙に人々に新たな視野を拓く鮮烈な論理を備えた書物に、何冊か出会うことがあった。(中略)世にはそういう書物があるのだ。(中略)けだし、同時代に高村さんがおられることは、今の私には救いとしか言いようがないのである。
この言を敷衍すれば、茫猿にとって南直哉師、玄侑宗久師、高村薫氏、そして乃南アサ氏がおられること、そしてその書に出会えることが歓びであり日々の楽しみなのである。
”問い”の問答の頃(2007年)には南直哉師も玄侑宗久師も若々しかった。南師49歳、玄侑師51歳だったのである。今や両師共に老僧の風格を備えられつつある。それは白髪や皺によるものなどではなく、両師が過ごされた歳月が醸し出したものであろう。
そういえば、”問い”の問答を読んで初めて「門送」のことを知った。人を送り出す時に、玄関の扉を出て見送る、送り出して直ぐには扉を閉めない、まして鍵を掛ける音を響かせたりしない。その程度のことはマナーとして承知していた。背後で錠の落ちる音を聞くのは、あまり心地良いものではない。その送り出しの作法を「門送」といい、門前に立ちて客人の姿が見えなくなるまで見送ることを禅門では”門送”と云うのだと知った。
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