意識と感覚

養老孟司著「遺言」を読んでいる。読み進みて思うのは玄侑宗久師や南直哉師が説く禅の真髄と似ている表現が多いと云うことである。即ち、並行してと云うか以前から二度三度と読み返している本に玄侑宗久著「禅的生活」、玄侑師と南直哉師の対談集「[問い]の問答」、南直哉著「超越と実存」、南師と高村薫氏の対談「生死の覚悟」がある。これらに説かれている幾つかのくだりが養老氏の書かれていることに相似していると思えるのである。

養老孟司氏は科学者(東大医学部名誉教授)である。玄侑宗久師は臨済宗の僧侶であり、南直哉師は曹洞宗の僧侶であり、共に禅僧である。つまり科学者が説くことと禅僧が説くことが相似していると理解できるのである。

尚、流し読み程度の読み方であり、生命科学にも禅宗にも門外漢である茫猿が、碩学が語る”意識と感覚”について言挙げするのは烏滸がましいことであろうと自覚している。

グローバル化という意識で世界を捉えようとする金融資本からすれば、世界は同じものに帰結させようとするであろう。グローバル化とはデジタル化とある種同じものであり、それは0か1かで捉えられるとも云えるからである。されど、世界を感覚で捉えたら同じものは一つも無いのであり、その究極の感覚が芸術なのである。

感覚は自律神経系で捉えるものであり、意識はそれ以外の神経系即ち脳髄で捉え咀嚼するものでもある。熱い冷たい痛い痒いと感じるのが感覚であり、その後に熱さ痛さは何によってもたらされたのかと考え、その因を除こうとするのが意識である。

《これは養老氏の著述を読みくだいた茫猿の意識であるが、半可通であるから読み返してみても、何やら意味不明である。こうも云えようか、意識としては言わんとする表現は表現そのものとして透明に理解できる。然し乍ら、理解しようとする意識を感覚が拒否するのである。》

さて、臨済宗禅僧の玄侑宗久師は彼の著書「禅的生活」でこう述べている。
禅は学習や経験によって形づくられた価値判断や好き嫌いによって、今の出逢いに余計なものが介在することを否定する。「先入観」なく、出逢えと禅はいうのである。《ここで先入観とは養老師のいう意識であろうし、出逢いは感覚であろう。》

無数の因果関係から適宜に選んだ因果の糸で綴られた時間という織物が恣意的な歴史であり、その先入主に人は縛られる。禅はそうした「物語」に仕立てられた時間と自己を、瞑想のなかで解体しようとする。それは「排列」も「経歴」もされていない全的体験を得ようというものである。《歴史は意識と呼応し、全的体験は感覚と対比されよう》

曹洞宗禅僧の南直哉師は「問いの問答」でこう述べている。
情報になった言葉はひじょうに透明です。そもそも透明で均質でないと情報として流通しない。しかし、実存を語る言葉は、どうみたって透明ではない。つまり、一定の確定的な意味が一義的に対応するような言葉で、実存を語ることはできない。《情報は意識と対応し、実存すなわち有りのままの存在は感覚と対比されよう。》

如何であろうか、脳科学者である養老孟司氏が語る感覚と意識の因果というものが、玄侑宗久師の語る先入観と先入観なき全的体験、南直哉師の語る情報と実存、それぞれを対比対応させて読めばとても理解し易いのである。

しかしながら、先入観や共通であろうとする言語で彩られた、脳髄が紡ぎだすものが「言葉」であろうし、言葉で語るものが意識なのであろう。それに対してそのような脳髄が記憶する学習や経験というものを一度解体した上で全的体験:実存を得よう、「感覚」を得ようということなのかと理解する。それこそが茫猿の”当たるも八卦当たらぬも八卦”と云う意識なのであり摩訶不思議な感覚である。そこで偈は喝なのである。

《追記:本日の茫猿鉄道》
高架線路に架線柱が立ちました。架線柱林立の中を叡電観光展望電車・青もみじきららが通り抜けてゆきます。ジオラマ写真を見るときは「ジオラマの存在する室内の設えという背景」意識などは捨象してジオラマそのものだけに「没入する感覚」こそが大事なことである。小さなジオラマに走らせる幾つかの模型電車を通じて、全国各地の鉄道に思いを巡らせることが、ジオラマで遊ぶ醍醐味なのである。

人が意識する”時間”とは、人が創り出したものであり、宇宙には絶対的な時間は存在しない。アインシュタインの相対性理論は時間の絶対性を否定するものであり、宇宙には人の意識するような意味での時間は存在しない。晴れた日の星空に見える月とアンドロメダの姿は似て非なるものなのである。直近の姿である月も1.3秒前の月であり、アンドロメダに至っては230万光年前の姿なのであり、今のアンドロメダの姿は到底知り得ない。

デジタルコピーは究極的に同じ物を作る。オリジナルとコピーに差異は認められない。対してアナログコピーはオリジナルとコピーには歴然とした差異が存在する。アナログコピーを繰り返してゆくと劣化が進み似て非なるものへと変化してゆく。

 

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