母屋玄関先の前栽を眺めていたら、一年という歳月を確かめたくなった。昨年の 06/11に、こんな記述を残している。「夕方になって普段にはない疲れを感じるが、ツルハシを振るっての抜根作業が喜寿近い老体にはこたえたようである。それでも体力を振り絞ったお陰で、なんとか見られる玄関先になった。母屋の北側には陰になっているサツキや庭石があるから、追々に移植、移石すれば、数年後には、それなりに様になるだろうと考えているものの、数年後にあるじの人は幾つになるのやら。」 『梅雨入り: 2019年6月8日』
「東海地方の今年の梅雨入りは昨日(2019/06/07)だった。先月末から干天続きだったから、昨日の降雨は恵みの雨だった。明け方や夕刻に水撒きをしなくてもよいのは助かるし、絹さやなどが終わった後に植えたサツマイモ苗にはもっと恵みの雨になった。大きくなった常緑の植え込みが玄関先を占めるのはとてもうっとおしい感じがする。だから思い切って伐採してしまおうというのである。」 2020年の梅雨入りは 06/10だった。
一年が経って、柘植を伐採したばかりの殺風景だった前栽も緑が濃くなった。
一年のあいだに踏み石が整い、苔が随分と広がった。
増えた植栽は、石蕗(ツワブキ)、木賊(トクサ)、紫式部(ムラサキシキブ)、雪乃下(ユキノシタ)、大文字草、万両、千両、万年青(オモト)、枝垂れ梅である。
「追々に移植、移石すれば、数年後には、それなりに様になるだろうと考えているものの、数年後にあるじの人は幾つになるのやら。」とは昨年の記述であるが、一年でもこれだけの変化である。さらに一年後の変容が今から楽しみである。一年ならば楽しむことも有りならむとぞ思える。
もう一ヶ所、一年の月日を知る場所が西江川沿いの土手である。写真は「秋風、秋空、虫の声 : 2019年8月25日」記事に掲載する西江川の写真である。土手沿いの生垣を伐採した経緯はこちらで、「桜土手そして桜守り: 2019年8月9日」。
そして十ヶ月が過ぎた昨日、のびた夏草を刈り払った今朝の景色である。見て取れる程の変化は明らかでないが、雪柳、紫陽花、宮城野萩そして桜苗のそれぞれまだ小さいが確かに定着しており、数年後の春、夏、秋が楽しみである。これも一つの雪月花であろうか。
庭先に埋めた水瓶の睡蓮が咲いた。昨年放ったメダカが三匹だけ越冬できて、泳いでいるが、まだ卵も孵化も見られない。
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