止揚学園の新館落成

【只管打座・・止揚学園新館落成・・04.07.20】
 梅雨末期の集中豪雨で甚大な被害を受けられた、新潟県並びに福井県の皆様、如何お過ごしでしょうか。何事もなければよろしいのですが、読者ご自身は被害がなくとも友人知人などに被災された方もおみえだろうと存じます。誌面からではございますが、お見舞い申し上げます。


 堤防決壊のニュース映像を見ておりますと、1976.9に茫猿の暮らす輪中地帯を襲った長良川決壊の惨事を思い出します。床上浸水被害を受けて、水が引くまでに数日以上を要しますと、その被害は見かけ以上に大きく、家財道具は言うに及ばす家屋そのものの復旧に思わぬ時間と経費を要するもので、いっそのこと解体再建の方が易しく思えますものの保険では補償されず、難渋した知人親類を改めて思い出すのです。皆様の被害無きこと、軽いことをお祈りします。
 さて、昨7月19日には、かねてよりご紹介しております止揚学園の、老朽化し耐震上問題有りと指摘された本館が、立て替えられた落成記念式がございました。 学園よりご案内を頂いて、やっと地価調査が終わってほっとしたところでもあり、心ばかりのお祝いを持参して列席してまいりました。
 式典はミサ、賛美歌、新館建築の経緯報告と進み、学園に在園する人達と保母さんや職員の皆さんによる演劇「近江に伝わる琵琶湖太郎の民話を題材とする劇・ビワ太郎物語」そして昼食、午後は福井先生の講話と止揚シスターズの歌と盛りだくさんでした。
 止揚学園は社会福祉施設であると同時に、キリスト者の施設でもあります。でも参加者はキリスト者に限らず、浄土真宗や禅宗の僧侶の方もお見えになるのが、みんなに開かれた止揚学園らしいところです。真宗門徒の茫猿もお坊さんと一緒に賛美歌を歌いました。
 ビワ太郎の劇は、在園生の仕草がたどたどしくて愛嬌があり、楽しいものです。しかし、彼等彼女達も年々歳を加えるとともに、身体が演技についてゆかないことも多くなり、なかには車椅子で出演した人もいます。そんな彼等を客席より見ていますと、劇の輪にとけ込もうと頑張っているのが見えるだけに、時の経過というものの、障害というものの、ムゴサが胸にせまってきます。 でも彼等も、お世話する職員の皆さんも、とても明るく、「お祝い」を祭りごととして楽しんでいるのに、とても救われます。そして彼等の明るさが、訪れた私たちに大きな元気を与えてくれます。
※みんなの力一杯の演技です。

※止揚シスターズのコーラスと、そののあいだは講話を休憩中の福井先生

 福井達雨先生も仰有っていましたが、強者が弱者をいたわるのでなく、実は弱者から力を与えてもらっているのだと、実感します。福井先生の講話は、止揚シスターズのコーラスをあいだにはさみながら、こんなことを言われました。
 パラリンピックやTVや障害者の企業雇用など、社会的弱者である障害者が社会に多く進出するようになり、良くなったとよく言われる。 でもよくよく考えてみれば、障害者のなかでも力のある者、能力の高い者が社会に進出しているのであり、そのこと自体は素晴らしいことではあるが、止揚の仲間のように社会進出もままならないどころか、かえって困難が増しているケースも多いのです。
 社会福祉施設にも経済合理性の視点が求められるようになり、数字ばかりが追いかけてくるような改革の進行は、止揚学園にとっては、とても生きにくい時代になってしまいました。 バリアフリー化が、様々な場所で進んでいますが、老齢健常者にとってはバリアフリーでも、学園の仲間にとっては、かえって昔の方がよかったとも言われます。
 エスカレーターが整備されても、彼等は転倒事故が怖くて、介護無しでは乗れないこと。エレベーターも一人では行き先階ボタンが押せないこと。切符自動販売機の普及は、駅員さんから直接切符を買う楽しみを無くしたこと。 学園の仲間達にとっては、旧式のスタイルの方が、面倒でも、時間がかかっても、楽しみが多く、心豊かなものであったと言われます。合理化で駅員さんが少なくなり、若い駅員さんに背負ってもらって、階段を昇り降りしたかつての方が、一見不自由でも豊かであった。
 差別が存在しても、障害者が地域社会のなかで暮らして行けた時代の方が人間的であったとも言われました。この言葉を軽々しく引用すると誤解を招きますが、社会福祉とか、共生というものの在り方などを考えると、とても重いものを考えさせられます。 経済合理性の追求や移動速度や情報伝達手段の変化など、社会の進歩といわれるものの背景に、切り捨てられてゆく多くの存在が見えなくなってゆく怖さを、改めて思います。
 先生のお話は、とても示唆に富むものであり、「見えるものよりも、見えないものを大切に」という考え方、「変えてゆかねばならないこと、時代とともに変わってゆくこと、でも変えてはいけないこと」に心配りする考え方、生き方。 いってみれば、物質的な豊かさを追い求める心の貧しさとも云えるものであり、物資的にはさほど恵まれなくとも、心豊かにゆっくりと生きてゆく素晴らしさを忘れないようにしたいものと、考えさせられました。

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