鄙に何故こだわるかⅡ

 鄙とは草深い田舎のことである。しかし、単なる田舎を意味するのではない。鄙(ヒナ)とは在郷のことであり、旧態を残すものの、暖かさを秘めた在所のことです。美しくも懐かしい日本の風景に満ちた、農山漁村のことです。

『この記事は、茫猿がウエブサイトを開設して間もない99/09/09に「鄙からの発信」というサイト名の由来について書いたものです。ほぼ十年も前の記事ですが、今も色あせていないと思いますし、今につながる問題意識を綴っていますことから、07年が終わるに際して加筆しながら再掲するのです。『』内は再掲にあたっての加筆です。』


 旧態という言葉からは因循姑息、因習、時代遅れなどと否定的イメージが浮かぶでありましょうが、そうばかりとも云えないと考えます。鄙こそが日本の原点と云えないだろうか。原点であるからこそ見過ごしてはならない多くの問題を我がこととして意識することが大事なのだと思います。
棚田に代表される鄙の水田、そして水田の保存と自然環境維持、一見して峠を越えてしまったかに見えるがこれからが正念場の農業問題、鄙の家族制度も都会とは逆の意味で核家族化(老夫婦化)が進み、いまや個家族化(独居老人化、個は家族とは云わないか)の状況にあるのです。
 これらの鄙に見られる事象は個々に無関係に発生しているのではない。家族単位による農業経営がその経済性を失う過程のなかで、専業大規模化を指向するか、もしくは兼業化を指向して世帯収入を向上させる道を選択するかを、迫られ続けてきた結果なのです。個々の農家は否応なく時代の波に流されて、今に至っている訳で、農家に限らず漁家も林家も同様の状況にある。最近では町場の小売店も同じ状況に至っている。

『農林業を主産業とする鄙の実態は、実のところは農林漁業に支えられるのでなく、当時から公共事業関連の土木建設業が主産業であった。ただ、当時は主産業はあくまでも農林漁業であり、公共関連土木建設業は副業的位置づけがなされていた。しかし、その後の行財政改革により、公共事業が縮小し、米価が低落し農林漁業補助削減が進められることにより、実態として鄙の主産業である公共工事関連土木建設業は衰退し、その結果として本来主産業として位置づけられる農林漁業の疲弊が明るみに出されたというのが今の実情である。』

 兼業化の指向は兼業収入の増加を目指すのが当然であり、必然的に農業の家計収入に占める位置は低下し、日曜農家化するか三ちゃん農家化してゆく。60年代に農業を担った三ちゃんは、今やリタイアして、今の農業の担い手はほぼ完全な土日農家である。手間が掛からず安定収入の見込まれる(今や見込まれたと云うべきか)稲作以外には興味が無く、農家でさえも畑を荒らし野菜を購入する時代になってしまっている。もちろん、農業の基盤改善にも農業の将来展望にも意欲も興味も無くなっているのが実態です。
 こういった鄙の置かれている状況を、どの様に考えたらよいのでしょうか。
経済的向上をひたすら追いかけるばかりの時代風潮にこれ以上押し流されていいのか。新しい鄙を各々の心の中に築き上げる努力を始めるときに来ているのではないか。日本中あげてリストラブームである。グローバル化が合言葉である。おかしいのではないのか怪しくはないだろうか。

『リストラは正しくはリストラクチャリングであり、一般には雇用調整とか経費削減といった経営改善的な意味で使われるが、本来は再構築という意味である。「グローバル化に対応するリストラを実施」などというかけ声による経営改善・企業収益向上の実態は、雇用形態の改悪であり、パート雇用、派遣・契約社員、さらには偽装請負の採用により労働分配率を低下させ、その雇用者の犠牲の上に得られた成果が最近の企業収益向上でなのである。
 その結果は何が生まれたかといえば、企業収益の向上に伴う配当や株価上昇という果実は、この十年間に著しく増加した海外株主の手に渡っているのである。残りは言うまでもない。10%程度の国内富裕層の手に渡ったのである。 国内雇用の過酷ともいえる雇用流動化多様化は一部富裕層のさらなる富裕化と、本来雇用者に渡るべき収益向上の果実が海外流出しただけである。 トヨタ自動車然り、キャノン然りであり、それに手を貸し自らも好況を謳歌するのがオリックスである。つまり、経団連会長や内閣総合規制改革会議議長企業が繁栄を謳歌する背景に何が存在するかが問われている。
 ちなみにトヨタ自動車の海外株主は10%に迫る状況でおり、キャノンは実に50%超、オリックスに至っては60%を超えている。トヨタの海外株主比率はさほど大きくないが海外生産比率は50%を超えている。これらは良い悪いの問題ではなく、企業ビヘイビアに関わる問題なのである。
 今の日本財界のリーディング企業は国内企業でなく海外企業あるいはグローバル企業と云ってよいのである。何もトヨタ、キャノン、オリックスに限らないので、高収益を謳歌する企業の多くは、国内の雇用条件劣悪化に支えられて好収益を維持する海外企業と云えるのであり、後述のアンフェアトレード日本版と云えるのである。』

 フェアトレードという言葉が最近聞かれるようになりました。「海外からの輸入品は安ければよい」という考え方に異論を唱える論調です。需要者優位の立場から海外産品を安く購入することは、不当なのではないか。一見して経済合理性があるように見えるが、実は為替格差を隠れ蓑にして、海外の労働力を不当に低く購入することになってはいないのか。同じことが鄙の産品の都市部への移動に際しても認められるのではないでしょうか。農林漁業労働報酬を正当に評価すれば、現在の一次産品の対価は安すぎるのではないのか。

『海外の安い労賃、劣悪な労働事情に支えられる低価格商品を輸入するというアンフェアトレードだけでなく、前述のように国内の労働条件悪化を支えにアンフェアな低価格輸出を行っていると云えるのではなかろうか?』

 このような問題提起をすると、海外産品との競争の結果として安くなったのだと云われます。しかし、その競争が実はアンフェアトレードのもたらしたものだとしたら、問題の根深さは大きいものがあります。海外の労働対価は安いのだからと安易に片づけてしまっていいのでしょうか。様々な歴史の結果を反映する発展途上国の労働問題、そしてそれとリンクしている、鄙の村落崩壊につながる国内一次産品の低価格化を放置して置いてよいのでしょうか。

『今や海外と日本という問題でなく、国内におけるワーキングプアと鄙と農林漁業と中小零細企業 VS 都会と海外展開企業と金融企業という図式なのだと思います』

 美しい鄙の復活は、グローバル化・デジタル化・Web化などと声高にスローガンを叫ぶ都会の強者が、日本や世界に散在する鄙の弱者を思いやることから始まるのではないでしょうか。
 強者が弱者に、思いやりの心で譲るのが当たり前の世の中にしたい。先ず、私からそうしたい。私一人くらい何をしても大勢には影響ない。良くも悪くもそのように考えて流されていないだろうか。流れに逆らって櫓を漕ぐのは容易ではない。まして一人ではとても辛い。でも何事も一人から始まるのではないのだろうか。
 一人の考え方、生き方に誰かが共鳴することから始まるのではないのか。そのきっかけは、誰かが何かを語ることから、行動することから始まるのではないのか。小さな、何の力も認められない市井の民が、何をしても無駄なことと、最初から諦めきっていないだろうか。
 己が聖人君子にほど遠い以上、道に迷い道を踏み外してばかりです。それでも気付いたら戻る。戻ることを忘れない、いとわないことに、個が個でありえる原点があるのではと思います。個が孤であることを怖れず、個として確立し、個から始まるのであり、個を大事にするところに原点がある。そんな思いが益々深くなるのです。鄙の美しさを語るつもりが、とんだ世迷いごとになりました。

『99/09/09時点での茫猿の述懐です。十年間何も変わっていない。いいえ、問題の根は深くなり広がっているのです。 国内10%の富裕層はさらに富み、80%を占めていた中流層は崩壊し世帯年収200万円以下の貧困層が増えただけである。「希望は戦争」の赤木氏へのお答えはここに既にあると考えるのです。』

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