考えてみれば

 考えてみればというよりは振り返ってみればである。20代30代の頃には、60代になった自分が何を考えているだろうかなどと考えたこともなかった。 「週に一度柳ヶ瀬で呑めて、月に一度ゴルフができて、女房子供が飢えなければ、それでよし。」などと嘯いていたように思う。それから早や40年近く、子供達は遠くにあり年に一度も顔を見ない。60も半ばになって、Blogで憂さ晴らしをしているなど想像もしていなかったし、パソコンが身近にあるなど考えもしなかった。【茫猿が業界に入った頃は電卓すらなくて、もっぱら算盤が計算必須アイテムだった。】


 柳ヶ瀬はすでに昔日の賑わい無く、ゴルフから遠ざかって久しいのである。地価公示と地下工事が混同され、鑑定と云えば運命や宝石と取り違えられたのも今は昔である。先日も鑑定士家業は楽して儲かりそうという志願者が事務所に訪れたのである。40年前に較べて不動産鑑定評価がポピュラーになったということは、それは即ち鑑定評価が一つの時代を過ぎたと云うことであり、コモデテイ化がより進んだと云うことなのであろう。
 人生の収支決算をするにはまだ少し早いにしても、「算盤:地下工事」時代から「PC:楽して儲かりそう」な時代まで、斯界に身を置いてくると多少の感慨はある。
それがそれ、「どうしょうもない」と「勘違い二つ」と「近未来3」の落差なのであろうと思える。人生なんてそんなものなのであろう、先のことなどわかりはしないし、思い煩っても「どうしようもない」のである。「考えてみれば」、今為すべきと考えることを一つ一つ為してゆくしかないのである。意に反することも多いし、意に染まないことも少なくない。でも今を生きてゆくしかどうしようもないのである。道元禅師は「路傍の石塊にも仏性をみよ」といったそうな、袖すり合うもの皆仏性ありということなのかもしれない。ここでも只管打座と茫猿遠吠の行きつ戻りつなのである。
 ところで、某氏から最近こんなことを言われた。
「ブログなど読まないし、発行しようと思わない。日記というものは人に見せるものではないし、人の日記など読みたくもない。」というのである。ブログ=日記という概念は数年前のものだということに気づかれていないのである。Blogは違いますよ、iNetにおける表現方法の一つですよと云おうかと思ったけれど、止めにした。食わず嫌いを訂正しようとするのはある種時間の無駄だし、彼が若ければまだしも、鄙の堂守と同年代であれば時間の無駄を通り越して、感情のもつれになりかねないのである。『君子危うきに近寄らず』である。
 茫猿はもう一つ『君子豹変す』も好きな言葉である。君子豹変は「ころころ変わる」と誤解されることが多い言葉であるが、本当は「君子豹変、小人革面」なのである。変わるもの、変わるべきもの、あるいは、変わるを憚るなかれなのである。ついでに云えば「君子」も毀誉褒貶の多い表現である。「四君子」といえば、菊・蘭・梅・竹のことであり清らかで気品高く美しいものの代名詞であるが、「君子」といえば夜郎自大とか、田舎者とか、独りよがりなどと揶揄されるのが当節である。お判りかな君子=茫猿遠吠=鄙の堂守なのである。
「今日のiNet注文書籍」 森達也著作三冊である。
1. “世界が完全に思考停止する前に (角川文庫)”
森 達也; 文庫; ¥ 540
2.”王様は裸だと言った子供はその後どうなったか (集英社新書 405B)”
森 達也; 新書; ¥ 735
3.”死刑 “ ”人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う”
森達也; 単行本; 朝日出版社 ¥ 1,680

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