桜の樹の下には

 先日のエントリーでは時間が無くて題名を紹介するだけに終わった「桜の樹の下には」についてである。

 そこで親爺はといえば、二階の女(2貝の女:櫻)なのである。いえいえ、親爺殿かて「ねがはくは花の下にて(西行法師)」、「桜の樹の下には(梶井基次郎)」、「桜の森の満開の下(坂口安吾)」、「朝日ににほふ山桜花(本居宣長)」が語れない訳ではない、ないが今は艶めいて二階の女なのである。

 桜についての西行法師も、梶井基次郎も、坂口安吾も、本居宣長も、いずれも有名な和歌や文節であるが、これらについて簡単に読めるiNet図書館を紹介しておこうと思う。
『西行法師』(Wikipediaより引用)
 平安時代の歌人・西行法師が、月と花(サクラ)を愛したことは有名である。西行法師が詠んだ歌の中でも、次の歌は有名である。
 「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」
西行法師は、この歌に詠んだとおりの状況の下、入寂したという伝説がある。
岩波新書:西行
『本居宣長』
 「敷島のやまと心を人とはば 朝日ににほふ山ざくら花」
 この歌は、桜の散り際のみごとさを詠うものとして、戦前にもて囃されたものである。「花は桜木、人は武士」などと云う類である。しかし、宣長の桜を詠う他の歌などからすれば、只ひたすらに桜の美しさを愛でた歌であると解するのが素直だろうというのが当節の大方の見解である。いわば「宣長読みの宣長知らず」なのである。
 「まちつけて初花見たるうれしさは 物言はまほし物言はずとも」
 「咲きにほふ春のさくらの花見ては 荒らぶる神もあらじとぞ思ふ」
 「桜花ちる木のもとに立ちよりて さらばとだにも言ひて別れむ」
岩波現代文庫:本居宣長
 云うまでもないことだが、西行法師が愛した桜も、本居宣長が愛した桜も、私たちが街角や公園で見かける「ソメイヨシノ」ではない、ヤマザクラ系なのである。染井吉野は江戸末期から明治初期にかけて江戸の染井村で発見されて全国に広まったエドヒガンザクラとオオシマザクラの一代雑種なのである。

桜の樹の下には』(梶井基次郎:1928年12月初出)
 桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。

桜の森の満開の下』(坂口安吾:1947年6月初出)
 桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子(だんご)をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩(けんか)して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。

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