郡上那比・割れた墓石

 郡上八幡は盆踊りの季節だが、今日は踊りの話ではない。 踊りの発祥とも関わりがある宝暦義民の話である。 郡上八幡の南西部に那比(ナビ)という山間の村がある。 長良川鉄道相生駅付近で国道156号から分かれ西方へ、長良川の支流那比川沿いにさかのぼること約10kmで那比に至る。 この那比のなかの小谷通(オガイツ)という地区の国道256号沿いに二つに割られた墓石がある。


 
 墓石に並んで宝暦義民碑と案内板がある。その案内板表示を転記する。

「郡上一揆義民・駕籠訴人  那比村籐吉の墓・義民碑」
 那比村籐吉は、1755年(宝暦五年)8月の那留ヶ野の帳締谷の寄合に名を連ね、その後も下川筋立者の代表的立場で活動を続けた。  同年十一月、同志と共に駕籠訴を決行した。
 籐吉の生家は、那比の小谷通といわれ、前谷村定次郎、切立村喜四郎と共に宝暦騒動の三羽烏と言われていたという。 駕籠訴の翌年、江戸評定所裁判で厳しい吟味を受け、途中病気となるが、強い気性で生き抜き、1758年死罪となった。

 籐吉の墓は、小谷通東方の山上に建てられていたが、1762年庄屋の家に運ばれ、二つに割られて上部が那比川に投げ込まれた。 下部は水屋に捨てたと伝えられていたが、1870年(明治三年)に下部が発見され、1895年に上部が亀尾島川の久造渕で見つかった。 上部は100年余にわたる川の流水のためにすり減っているが、法名の文字は「釈知禁」と読める。 1931年には、墓の横に「宝暦義民碑」が立てられた。

 詳しい背景は判らないが、何とも凄まじい話である。 何かを憚ってのことか死者の墓石を二つに割ることも凄まじいが、法名も尋常ではない。 郡上地方は真宗門徒が多く信仰心も厚いと聞いている、各地のお寺も立派な構えである。 そのような地で「釈知禁」という法名は異様である。 郡上一揆は一揆立百姓側と寝百姓側(日和見)とに別れたという、いつの世でもあることだが、寝返り密通もあっただろうから、それら様々な怨念がもたらした墓石割りなのかもしれない。

 話しはガラッと変わって、岐阜市の老舗書店が柳ヶ瀬の本店を閉じた。 ネット通販や郊外店との競争に敗れたのだろうが、柳ヶ瀬から文化の灯が消えた感がする。 茫猿にとっては長らく専門書や学術書を求める地元一番店であっただけに寂しさもひとしおである。
 写真の自由書房だって手を拱いていたわけではない。郊外に多く出店し「ツタヤ」との提携も進めている。集客力を失った柳ヶ瀬の本店は閉鎖するだけのことなのであろう。 でも郊外店はマンガと雑誌と新書・文庫本とハウツー書、売れ筋書だけである。 専門書や学術書とまで言わなくとも昨年刊行本すら書棚にない。 人、特に若いひとが集まらなくなった柳ヶ瀬からまた集客力を減じる動きかと思えば、とても寒い。 まともな書店の無い繁華街なんて、ワサビのない寿司、チーズのないピザ、チャーシューのないラーメンみたいなモンだろう。 本棚渉猟の楽しさを知るまっとうな若者が集まってくるわけがない。

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