汚名&差別と日本人

 『汚名』 鈴木宗男著 講談社刊
 『差別と日本人』 野中広務・辛淑玉対談共著 角川oneテーマ21刊
 地価調査のあいまを縫いながら読み切った本二冊である。 両著については様々な読後感や書評があり得るだろうと思われる。 「国家に人生を奪われた男の告白(書籍帯の惹句から)」と云い、「誰も語れなかった人間の暗部(書籍帯の惹句から)」と云う。


 記者クラブ発表事項の垂れ流しをするマスコミ報道を盲信しないという戒めと、正面切って取り上げられることの少ない部落差別問題、在日問題について、一人ひとりが自らの頭で考え自らの言葉で話し、問い直すことを求めている本だと思います。
 センセーショナルに声高に糾弾している本ではありません。 鈴木氏、野中氏、辛氏それぞれが自身の内省も含めて、自身が受けた、今も受けている事柄について静に語っている。 読後にそんな印象を受けました。 鈴木氏や野中氏や辛氏の述懐をただ読むだけでは駄目だと思います。 彼等が読者に問いかけている「問い」を正面から真摯に受けとめ改めて自らの言葉で考えることが求められている、そう思います。
 「引かれ者の小唄」と揶揄する方もいるのでしょうが、三氏が誠実であると云うことは、三氏が実名で語り、多くの政治家や官僚などの実名を挙げていることで理解できると思います。 三氏が述べることが100%の真実というつもりはありません。 彼等なりに美化していることも既に風化していることもあるのでしょうが、そこに語られている「彼等の側から見た、受けた事実」というものを掛け目無く読みとると云うことが求められていると思うのです。
※汚名より引用

『私の変化に気づいていたのは、妻の典子だった。
「絶対に一人にする時間を作らないように」
典子は秘書たちに厳命していたらしい。
「とくにホテルに籠もっているときは、どんなに文句をいわれても、
目の届く場所にいて、絶対に一人にしちゃダメよ。」』

※差別と日本人より引用(辛淑玉・解説より)

『差別とは、富や資源の配分において格差をもうけることが、その本質で、その格差を合理化する理由は、実はなんでもいいのだ。 部落だから、外国籍だから、朝鮮人だから、沖縄だから、女だから、・・・・。自分たちの利権を確保するために資源配分の不平等を合理化できれば、その理由などなんでもいい。』

※差別と日本人より引用(野中広務・あとがきより)

『とくに対談の最後の部分は、初めて話したことがほとんどだ。 これは辛さんがご自分の体験や心情を包み隠さず話して下さったことが大きく影響している。 あえて舞台裏を明かすと、辛さんはこの部分を話すとき、時に嗚咽を堪えながら、また言葉も切れ切れに本心を語ってくださった。私も差別されてきた体験とそれと闘って来た体験を持つだけに、彼女の気持ちが痛いほどわかり、思わず言葉を詰まらせた。 心と心、魂が触れあうような気がした。』

辛淑玉公式サイト:http://www.shinsugok.com/
◎鈴木宗男:ムネオ日記:http://www.muneo.gr.jp/html/page001.html
◎野中広務とその時代:http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/nonaka.htm
 詳しくは不明なのだが、2008年03月13日に急逝されたとサイトに告知されている「橋本裕」氏のサイトである。 他にも佳き読み物が多い。「野中論」は橋本氏のサイトの「何でも研究室」の第36稿に掲載されている。 橋本氏はとんでもなく博識多才な方である。「何でも研究室」だけでも膨大な量が掲載されているからすべてを読むには時間がかかろうが、せめて「金子みすずWorld」を手始めに興味ある標題だけでも読みたいものである。
 鈴木氏、辛氏、野中氏について、『鄙からの発信』は折々に断片的ではあるが、記事にしてきているので備忘的に記しておく。 
※いい男の条件 (2000年9月 9日)
※不可解な話 (2002年3月27日)
※有事法制に反対(2002年5月 9日)
※不作為を排す(2002年6月20日)
※暑気払いは緑陰で読書(2004年7月27日)
※楽天か生扉か(2004年9月27日)
※行く年と来る年(2004年12月25日)
※K氏の葡萄酒的日常(2005年8月29日)
※疑問です????(2007年1月15日)
※情緒過剰な報道(2007年5月30日)
※七月一日(2007年7月 1日)
※国策捜査(2007年10月16日)
 折しも全国の有力地方紙夕刊では、張本勲氏の「この道」が連載されている。 また同じく朝刊では五木寛之氏の「親鸞」が連載されている。 張本氏は受けてきた云われ無き差別について語っているし、「親鸞」では「われらはすべて悪人である。」という親鸞の教えを説き明かす小説の佳境に入っている。
《閑話休題》
 茫猿の地元会サイトでは、公益法人化問題に関しての議論が盛り上がっているのだが、この論議を読んでいて、少なからぬ疑問を感じています。
 鑑定士は高邁な理想を語っているだけで良いのであろうか。
高邁な理想を語ることは、とても良いことである。 素晴らしいことであるから、誰も反対できない。 でも、それで良いのか? 本当に良いのか?
 同サイトのフォローコメント欄における発言者の大半はアラ還暦どころか、アラセブン(70前後)も少なくないのである。
 これからの、20年30年を鑑定業で生きてゆく方々にとって、理想では飯は喰えない。現実を見据えた理想論というものが必要であろう。 もっと端的に言えば、自分にとって望ましい士協会の姿・有り様とはなんであろうかと問い直すのである。 泥臭くても、即物的であっても、そこから出発しない論議など無意味と知るべきであろう。
 かく云う茫猿も半ば以上隠居の身分である。息子達に云わせれば「逃げ切った世代」であると云う。 閉塞感が満ちている業界について、上から目線でものを言うなとも指弾されるであろう。
 なればこそ、サイレントマジョリティーが気に掛かる。 今に不満がなければ、今のままで良いのであろうし、業益優先であれば一般社団法人化が好ましいのかもしれない。 自らの業務シェアを破壊しかねない理想論を放置して良いのか、それとも業務シェアの固定化は打破されるべきと考えるのか。 本音の議論がまだ見えてこない、そのことが何やら不安なのである。 本音の議論を避けた組織改革は問題を先送りするだけであろうし、火種を温存するだけであろうと懸念するのである。
 茫猿が二十年若ければ、その昔に協同組合設立に動いたように、今回は一般社団法人を設立して鑑定業登録を申請するかもしれない。その後の成り行きで公益法人認定も視野に入れておけばよかろう。 この選択肢は十分に検討に値すると思われるが、如何だろうか。
 本来なら、このような意見は公益法人化論議スレッドのフォローコメント欄に書き込むべきであろうが、議論を萎縮させたり妙な誤解を招くのが嫌だから (それこそ上から目線か!!) 、ここで茫猿は遠吠しておくのである。これとても茫猿流の斜に構えたアリバイであると、今朝も苦笑し自虐するのである。

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