購入したのはもう半年も前、それからいつも愛用のメッセンジャーバッグに入れて持ち歩いていた本である。 あまりにも難解で睡眠誘発剤としてはとても有効だけれど、一頁読んでは三頁戻って読み返しても、眠気が先という本である。
例えば、「自己内部の内的差異の構造の中にこそ、他ならぬ自己自身が自己にとっての未知の他者性をおび、自己自身が自己にとって反自己的にはたらきうるという危険な可能性が隠されている。」という類の表現である。 六度現れる”自己”という単語がどのような連関を持つのか、未だによく理解できていないのである。
『時間と自己』木村敏著 中公新書
「時間と自己」のなかから比較的理解できた一節を引用してみる。
「既知と未知」としての「いままでといまから」、生の既存性と死の未来性、有限な人間の個別的生存に対してその有限性それ自身によって必然的に課せられているこの両方向性が、われわれの日常の時間に「以前と以後」、「過去と未来」の区別を与えているのであり、時間に絶対的に不可逆的な流れという外観を与えているのである。
原理的には可逆的な等質性を有するはずの物理学的時間にすら、そこに人間による観測という操作が加わることによって不可逆性が与えられる。
未来が「まだ来ない」ものであり、過去が「過ぎ去って帰らない」ものであるのは、時間の本性に根ざしたことではなくて、むしろわれわれ人間が死すべきものであるという有限性の反映であるにすぎない。われわれが自己と呼んでいるものも、時間と呼んでいるものも、実はわれわれの死とのかかわりかたの様態にすぎない。
死というものが年ごとに日常的になり、自らも含めて生老病死を考えることが多くなればこそ、宗教的な意味での”死”のとらえ方だけでなく、精神医学的な”死と生”のとらえ方について示唆してくれる書であると思う。 思うけれど、断片的にしか理解できないのが残念ではあるのだが、それでも論理的な死というもの、あるいは死の意識作法について考えさせてくれる。
著者はあとがきでこうも述べている。
私たちは自分自身の人生を自分の手で生きていると思っている。しかし実のところは、私たちが自分の人生と思っているものは、だれかによって見られている夢ではないのだろうか夢を見ている人が夢の中でときどきわれれに返るように、私たちも人生の真只中で、ときとしてふとこの「だれか」に返ることができるのでないか。このような実感を抱いたことのある人は、おそらく私だけではないだろう。
夜、異郷、祭、狂気、そういった非日常のときどきに、私たちはこの「だれか」をいつも以上に身近に感じとっているはずである。夜半に訪れる今日と明日のあいだ、昨日と今日のあいだ、大晦日の夜の今年と来年のあいだ、去年と今年のあいだ、そういった「時と時とのあいだ」のすきまを、じつと視線をこらして覗きこんでみるといい。そこに見えてくる一つの顔があるだろう。
その顔の持主が夢を見はじめたときに、私はこの世に生まれてきたのだろう。そして、その「だれか」が夢から醒めるとき、私の人生はどこかへ消え失せているのだろう。この夢の主は、死という名をもっているのではないのか。
生の幕間をつなぐ道化師が死に神であるとするならば、この人生というものは自らの舞台なのであり、どのように演じきって舞台から降りてゆくかも、自らの演出しだいといえるのであろう。しかも演じている者はいつ幕が上がりいつ幕が下りるのかを知らされていないというおもしろさにこそ、生と死の醍醐味が潜んでいる。
今朝も雨、雨にうたれながらも桜蕾は赤みを増している。
桜に先駆けてコブシが開き始めた茫庭である。
車の乗り降りも不自由になり、小さく丸くなった背中を抱え込むように、点滴を終えた母の手を引いて雨のなか陋屋に戻れば、常にも増して早く咲け、早く暖かくなれと願う今朝の氷雨に打たれている桜蕾である。
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