老害

 過日、年若の畏友T君からこんなことを告げられた。 茫猿さんの文書は理解できるのだが、会議での発言は何を言っているのか理解できないことがある、と彼は言うのです。
 来たっと思いましたね、始まったと思いましたね。 初期のアルツハイマー症候群なのか、ただの老人性症候群なのか、とにかく私にも来たと思いました。 少し耳が遠くなっているのをいつからか自覚しているし、目はずいぶん前から老化しているし、言語障害が起きていても不思議はないと考えました。 でも少し違うようなのです。言語は明瞭だが意味不明のように聞こえるのです。
 とすれば、これは老害なのだと思いました。何を言っているのか判らないのではなく、何を言わんとするのか理解できないのであろうと気づいたのです。彼と同席した会議の幾つかを振り返ってみたら、思い当たりました。


 要するに、話題になっている現状認識に相違がある場合、使用する術語に認識の差がある場合、総じて共通認識の基盤を欠いている場合に生じる議論のすれ違いなのではと考えたのです。 と申せば格好良く聞こえますが、単純に言えば独り合点が多くなったと云うことです。 つまり老害の始まりなのです。

「横井也有 鶉衣 より」(2005.03.30初出)
 実も蓋もなく老醜を揶揄した詩です。
 初出の頃に較べて、随分と素直に腑に落ちるようになりました。
 思い当たることが増えたか、減ったかと自問自答していますが、
 意味もなく増やさないように気張るのは、心身に悪いように思える。

 くどくなる、 気短になる、 愚痴になる、
 思いつくこと  みな古くなる、
 聞きたがる、 死にともながる、 淋しがる、
 出しゃばりたがる、 世話焼きたがる、
 又しても  同じ話に孫ほめる、 達者自慢に  人をあなどる。 

 こんなのが会議の席にいて、独りよがりを延々と話していれば、邪魔になりましょうし、立派な老害でしょう。 認識の違いに気づけば、諄々と説くべきでしょうし、尋ねるべきでしょうが、元より長い話やまわりくどい話が嫌いですから、飛躍の多い理解しがたい話になるのでしょう。 文書であれば多少の推敲や校正をしますが、会話となれば、そうもゆきません。
 鑑定評価実務の世界からは既に足を洗っていますし、鑑定協会の仕事も、元々一年間の任期を全うするだけのこと、早ければ年内、遅くとも年度末にはお役御免になる身ですから、さほどに思い煩う必要はありませんが、他の場面でも似たようなことがあるのかもしれませんから、注意したいと思っています。
 何よりも、言い難いことであろう忠告をしてくれる友人を持っていることを、幸せに思っています。 会議なども暇に任せて皆出席を誇るよりも、たまには欠席すべきなのだろうなと思ってもいます。 三つ子の魂などと申しますが、今日の会議は完黙で通そうと思いつつ出席して、結局のところ駄弁を弄することも多いのがこの頃です。
 若ければ、多少の遠慮もあろうに、怖いものなしの年嵩をいいことに「出しゃばりたがる」し、「くどくなる」し、年若をあなどる気持ちも何処かにあるのだろうと自戒しています。 老害とはまことに困ったものです。
 そういえば、これもつい先日のこと、泥酔(歩行できたし、本人に酔っている自覚症状あり)して、久しぶりに息子の世話になりました。 深夜に赤羽から六本木まで迎えに来させて、赤羽でホテルを取らせたのです。 往復のタクシー代1万なにがしを払ったのは茫猿自身ですから、泥酔前だったと思います。  この時は、一回りから二回り若い方達数人と呑んでいましたから、結局の処は若い方と互角に立ち回るには歳を取りすぎてしまったということです。

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