とあるRes Mail

貴e.Mailを拝見しました。 鋭く的確な現状認識に敬意を表します。
小生は現場に存在するものとして、ご指摘の矛盾や問題点に如何に対処するかという観点から考え続けてまいりました。 その立場から、鑑定士は不動産市場において、あるいは市民社会のなかで、如何に在らねばならないかについて愚考を申し上げます。 とは申しながら散漫な唯々嘆きばかりのResMailをお届けすること、お詫び致します。

・ザインかゾルレンか
ザイン(実在:現実)かゾルレン(当為:理想)かについて神学的論争を繰り広げることは不毛であろうと考えます。 ザインに偏すれば市場の追認者に堕ち、ゾルレンに偏すれば唯我独尊に為りかねない。 しかしながら、この両者のあいだで常に悩むことにこそ、鑑定士の存在意味があろうと考えます。 神学的表現になりますが、ゾルレンを意識しつつザインを考え、ザインを意識しつつゾルレンを考えてゆくことが大事なのであろうと考えます。

・地価公示が内在させている矛盾
地価公示価格が公共用地取得の指標であらんとした時には、取得できない価格は無意味との批判を招き、税評価の指標であらんとする時には、税評価の保守的安定的性向を乱すものは排除されました。  公示価格が内在させる二面に潜む矛盾を指摘されて久しいにもかかわらず、それは未だに解きほぐされていません。
同様に、証券化であれ破綻処理であれ、役に立たない(買えない、売れない)評価額は無意味であるとの批判に常に晒されてきましたし、常に揺り動かされてきました。
社会の潮流に無関心であってはならないけれど、同時に押し流されてもならないと考えます。 それは同時に自らの立場を確立し明らかにしてゆくという困難な作業を続けてゆかなければならないということに他ならず、「ジャッジメント:ゾルレン:鑑定人のポジション」と、「アセスメント:ザイン:評価人のポジション」を明らかにしてゆくことであろうと考えます。

地価公示にとっての喫緊の課題は公的評価部門を除けば、更地評価が大きな意味を持たなくなり、不動産市場においては複合不動産評価が重要な位置を占めるようになっているにもかかわらず対応できていないことであると考えます。 それは土地残余法並びに配分法に関わる問題に端的に表れていると考えます。

・鑑定士に求められる哲学的思考とリベラルアーツ
鑑定士は評価人的存在と鑑定人的存在を意識的に峻別すべきであり、同時に鑑定士である前に良き市民でありたいと考えます。 また不動産市場並びに不動産に向き合う哲学が必須であろうとも考えます。 基本的に鑑定士は社会の木鐸であるべき存在であり、リベラルアーツの素養無き鑑定士は有害な存在と考えます。

・鑑定評価書の開示
依頼目的が公的評価であれ、公共用地取得であれ、証券化評価であれ、多くの利害関係者の利益を図るためには、鑑定評価書の開示が必須であろうと考えます。 法によって守秘義務が課せられていますが、鑑定士は鑑定評価書を公開する用意があること、多くの利害関係者の為には鑑定評価書は開示されるべきものであることの二点を社会に問うべきであろうと考えます。 小生はその観点から鑑定評価書レビュー制度の創設を提案しています。
Rea Review 制度創設提案   Rea Review 制度Q&A

・不動産センサスの創設
鑑定士は単なる取引事例収集という狭い枠を越えた不動産センサス制度の創設を提唱し、それに深く関わってゆくべきであろうと考えます。
なによりも、デジタル化時代においては情報の非対称性は崩されてゆくものであり、情報の囲い込みの上に成り立つような鑑定評価はその根底から崩れてゆくと考えます。そのような時代には依頼者と正面から人間的に向き合える鑑定士でなければならないと考えます。
不動産センサスの創設-1   不動産センサスの創設-2

・鑑定士の不幸
鑑定士はその制度の発足と同時に地価公示、損失補償基準という業務の支えがあり、その後も、地価調査、監視区域添付評価、税務評価、競売評価、デューデリジェンス、証券化などと、社会の需要というよりは制度的業務創設に助けられ、自ら業務需要を掘り起こす努力を必要としてきませんでした。 これが不幸の一であり、常に神風に助けられてきた不幸です。

もう一つの不幸は、独立自営業種を標榜するにも関わらず、相互の協働作業無くしては事例の収集すらままならない業種であることに、個々の鑑定士が気づいていない、あるいは気づかないふりをしていることと考えます。
独立自営業であると嘯き、業務の到来をひたすら待っているという、我が儘で情けない存在に鑑定士を落としてしまったという不幸を痛切に感じています。 特に、新スキーム改善問題に関わったこの一年余の間は、手の施しようもないほどに情けなく思わされました。

・士協会の在りよう
士協会と一括りにはできないと考えます。 会員数二千名を越える東京会から会員数二十名前後の会まで、様々な局面での違いが大きすぎます。 また地域会のなかにおいても、比較的規模の相似する士協会の集まる地域会から格差が大きい地域会まで、ここでも格差がとても大きいものがあります。  既成の組織を所与と考えるだけでなく、士協会連合会や士協会の枠を越えた、例えばSNS的な連繋や横断的水平的な連繋も視野に入れるべきと考えます。

士協会の在りようについて、多少はドラスティックな意見を述べるとすれば、会長が大半の会員について顔と名前が一致しないような大規模会は末端組織としては大きすぎるのである。 支部を造るか、複数の士協会に編成替えすべきであろう。 例えば第一○○士協会から第三○○士協会のように。 会員数が数十人未満の小規模会においては、財政的に事務局の維持すら困難であるとすれば、合同会&支部構成といった編成も視野に入れて良いであろう。 連合会役員のなかには、「あまりにも小規模会を作りすぎた。」という、組織論としてもっともな意見も無いわけではない。

新スキーム改善問題に関わって痛切に感じさせられたことは、会員間における認識の格差があまりにも大きいことです。 無関心な会員が多い上に、関心があっても視野狭窄的な会員が多いことに暗然とします。 小規模会に多く認められることであるが、公的評価受注に安住し、取引事例の囲い込みをすればシェアが維持できると錯覚するところからは、何も生まれないと考えます。 簡単なことではありませんが、既存の鑑定評価の枠を越えた、最初は小さくても、小さく産んで大きく育てる新しい需要の創造が待たれます。 その観点からも士協会の在りようには再考の余地有りと思われます。

・私にとっての鑑定評価
当然のことながら、身過ぎ世過ぎのなりわいではある。 しかし、最初に報酬在りきとは考えませんでした(些か格好を付けた後講釈に聞こえますが)、評価報酬としての銭のみが目的ではないと考えていました。 良い仕事をすれば銭は後からついてくるとも考えていました。 銭(売上)を先に置いた時から堕落が始まると考えました。

鑑定士はライセンス商売と考え、ライセンス商売というものは形あるものを売らないから、結果として風当たりも強いものと考えていました。 今の仕事だけを考えるのではなく、次の五年先の仕事を準備することを常に意識していました。 言い換えれば、今は報酬に結びつかない仕事であっても、五年先への投資と考えるようにしていました。

たまたま運に恵まれただけとか、時代の潮流が後押ししてくれただけとも云えましょうが、自らのことだけでなく業界の在りようについても同じように考えていました。 理解されることは少なく実を結ぶことも少ないものでしたが、省みてそれほど間違ってはいなかったと思っています。
《妄言多謝》

 

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