冊子止揚第118号-Ⅰ

この秋に創立五十周年を迎える止揚学園から、冊子止揚118号が届きました。

今回の連載記事「負けいくさにかける《102》」では、今は亡き止揚の仲間達の数々のエピソードについて語られています。 《本記事は止揚学園のお許しを得て、転載させていただきます。》


《僕アホやない人間や》
十日間、マレーシアで御用を済ませて、止揚学園に帰ってきました。マレーシアは三十五度ぐらいの毎日で、やはり疲れました。
八十一歳になると、若い時のような肉体的な強さは少しずつなくなってきています。 帰った時、入園している仲間たちが外に出てきて、ニコニコ笑顔で、
「どこいってたん。まってた」と言って迎えてくれました。
「マレーシアに行ってたんや」
「マレーシア、どこ」
「遠い、とおい所や。飛行機に乗って行ってきたんやで」
「えー。ひこうき」

仲間たちの喚声が響きました。
そして、また「まってた」と言ってくれました。
「待っていた」という言葉は何と優しい言葉でしょうか。(僕を待っていてくれた仲間たちがいるんやなあ)と思うと喜びが一杯になつて、マレーシアの疲れがスーツと消えていきました。この仲間たちの素直な心は天下一品です。「ひねくれ屋の達」も降参です。
素直な心はどんな人間も優しく、明るくしてくれます。
止揚学園に帰ると、夏花が一杯に咲いているのが目に入ってきました。(どこに行っても、僕が住んでいる所が一番美しいなあ。この美しい自然は神さまの贈り物や。この贈り物を人間が高慢になって滅ぼしたらあかんなあ。僕がもっと、もっと謙虚にならんとあかんなあ) とシミジミと思いました。
さて、止揚学園も生まれてから早五十年が過ぎました。この長い歳月の中で、何人かの入園していた仲間が天上に召されました。長い時が過ぎても、その仲間たちへの思いが心から消えません。

死は不思議なものです。天上に逝った仲間たちの想い出が心に還ってくると、慰められて、安まされます。そんな時、私は(逝った仲間たちが心に復活してきてくれたんや。死は神さまの愛やなあ) と思えてならないのです。そんな私を、 「やっぱりお前は変わっているなあ。死は悲しいものなのに」 という知人もいます。 その度に複雑な思いになるのですが、黙ってニコツとすることにしています。

止揚学園に入園している仲間で最初に天上に召された「あきおくん」は、今も私の心に深く残っています。十九歳で逝きました。若い生命でした。 あきおくんがよく言っていた「僕アホやない人間や」という言葉は、私の処女本の題名になっています。
彼は茶目つ気の多い、明るい性格の子どもでした。でも、外出をしたり、家に帰った時に「お前はアホやから学校に行けなくて、施設に入っているんや」「お前はアホやから就職も、結婚もできないのや」など「アホ」という言葉をあちらこちらで聞かされて、大変くやしかったのだと思います。止揚学園に帰ってくると、私の所にきて、
「あんなあ、ぼくアホやないなあ」 と明るい声で訴えていました。
「そうやなあ。あきお君はアホやと僕は思わへんけど」 と私が答えると、
「ぼく人間やなあ」 と言って、ニコニコしていました。

私はその笑顔に、あきお君の持つ深い悲しみを感じて、この会話の度に心を重くしていました。
「僕アホやない人間や」という言葉は、私の心に強く刻み込まれ、それからの私の歩みの羅針盤になりました。
ある年の十二月の末、あきお君がてんかん発作を起こしました。いつもはしばらくすると発作が治まるのですが、この時はどうしても止まりません。私たちは慌てて、彼を病院に連れて行きました。診察を受け、注射をしても発作が続きます。
「入院をさせていただけないでしょうか」 とお願いをしたのですが、
「ここはてんかん専門病院ではないので、入院は無理です。この紹介状を書いた病院に行って下さい」 と入院を断られました。こうして、いくつかの病院を訪ね、やっと入院ができた時、あきお君はほとんど意識がありませんでした。

なかなかお医者さんがあきお君の診察に来てくれません。そこにいた保母さんたちと私はイライラしながら待ちました。やっとお医者さんが来てくれました。ホッとする私たちの見守る中で診察が始まったのですが、その時はもう危篤状態でした。
しばらくして、あきお君が旅立った時、私は (もう少し早く入院させてくれる病院を見つけていたら、死を迎えなくてもよかったのに。あきお君ゴメン) と謝りで一杯でした。《次号に続く

130816shiyo

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