疚しき沈黙に陥る勿れ

FaceBookに 、自民党安倍総裁&三原じゅん子の政見放送と『れいわ新選組』山本太郎の政見放送、其々の動画を見せているサイトにリンクを張り、「このサイト面白い。自民党と「れいわ新選組」の政見放送を対比して聞かせてくれる。」とフォローコメントした。

そうしたら、こんなフォローコメントが届いた。「現実はこの下劣な政見放送が受けるのですね。それだけ衆愚になっているということ。」 

コメント全体の内容からして、”下劣”は自民党政見放送を指すものと思われる。 ごもっともだと思います。至極、真っ当なご意見であるし、茫猿自身もそのようにも思ったことでもあります。 コメント者ご自身に悪意も揶揄する気持ちも無いことは十二分に理解できます。

それでも何か違和感を感じてしまいます。誤解を招くことを恐れずに申し上げれば、諦めにも似て現実を容認しているかのように聞こえます。衆愚と一般大衆を揶揄するかのような冷めたインテリゲンチャの目線すら感じます。 

そんな風に思えるのも多分のこと、六月末から『れいわ新選組』応援で熱くなっている茫猿は、水をかけられたような気がしたからでしょう。貧者の一灯、蟷螂の斧、鱓の歯軋りで有ろうと無かろうと、今思うこと考えること出来ることをするだけ、『疚しき沈黙』だけは避けたい。そう考える茫猿もまた自覚なき衆愚の独りなのでしょう。

衆愚など今に始まった事ではない。大衆というものが近年にいたって特に劣化したとも思わない。昨今の為政者、権力者の側がポピュリズムや扇動に長けているだけだと考える。しばらく前には忍び寄るナチズムに言及した財務大臣も居た。

そんななか、かつては物言わざれば、腹ふくるる技なりと、世の中の澪標であらむと、所信を世に問う人々が少なからず居たけれど、昨今は絶えて久しい。世慣れて事勿れと斜に構える若者も老人も増えた。波風を立てることを好まないのが大人だと、澄ましかえる訳知り顔が増えた。訳知り顔で納まりかえっているうちに、いつしか茹でガエルになっているとも知らずに。

茫猿はかつて、総理在任中の鳩山由紀夫氏が、普天間基地の辺野古移設問題に関連し「最低でも沖縄県外」と発言するのを聞いて「音羽山(文京区音羽の丘に建つ鳩山会館、通称音羽御殿)のボンボン」と思いました。 世間知らず、政治音痴の能天気な発言と聞いたのです。

しかし、「永続敗戦論(白井聡)」を読み、さらに「9条入門(加藤典洋)」を読むに到って、おのれの間違いに気づきました。鳩山由紀夫が世間知らずでも誤っているのでもない。間違っているのは鳩山総理を宇宙人扱いし、蚊帳の外においた「既成のエスタブリッシュメント達」なのである。

1945年8月の”敗戦”を”終戦”と呼び変え、敗戦後今に続く政治・経済そして軍事的な意味での対米従属構造の継続を金科玉条とし、敗戦を意識外のものとする欺瞞の上に築かれた政官財及びマスコミの「既成エスタブリッシュメント構造」、その構造そのものが鳩山総理を辞任へと追い込んだのである。

普天間基地の辺野古移転など論外であるとウチナンチュー(琉球人)が言うのは当然のことであるが、ナイチャー(内地の人)が言うのであれば移転先を引き受けるか、グアムなど海外移転に努力すべきであろう。ナイチャーが辺野古移転を容認するのであれば、第三の琉球処分に加担することであろう。

(注)第一回の琉球処分、1872年に明治政府が琉球王国を強制的に廃止解体した行為。第二回の琉球処分は国内で唯一戦場となった沖縄県を、敗戦後1952年に独立を回復するに際して沖縄を分離して米国施政権の統治下に置いたこと。日本という国は琉球王国に、そしてウチナンチューに二度の借りがあるのです。

常識的にあり得ないことだが、『れいわ新選組』と山本太郎が全員当選したとして十名である。参議院定数248の4%にしかならない。その議員数だけでは『れいわ新選組』が公約する消費税廃止も、奨学金チャラも、最低賃金1500円も、地位協定改定も原発廃止も何一つ実現できないでしょう。

しかしながら、それらの公約を掲げる複数の議員が国会に登場することの意味は小さくないことである。ましてや難病患者や重度障害者やコンビニや原発問題の当事者であればなおさらのことである。予定調和が蔓延する国会に風穴を開ける存在となるであろう。

今は「弱者に優しく」という福井達雨先生そして「負け続けることに意味がある」と説く久野収先生の教えを胸に、山本太郎氏の法外な胸のすく挑戦を応援しています。現実がどうであろうと、現実に流されることなく「疚しき沈黙」だけはしないと決めています。 思い起こせば、二十年前に鑑定協会会長選挙に立候補した時も、同じ気持ちだったと振り返ります。 

福井達雨先生はこう言われます。
『勝つこと、強くなることばかりを追い求めることは、負けた側弱い側を切り捨てることになります。 勝者がいれば敗者もいるのであり、一位がいるということは二位も三位もいるのです。 勝者が敗者について、強いことも弱いことも素敵なのだと、相手を思いやる優しい心を持つことが大切なのです。』 そして見えないものを大切になさいと言われます。

久野収氏はこう言われます。
『来る日来る日を今日限りとして生き尽くせ。 神は細部に宿る。 少しでも理想に向かうことが我々の勝利であり、どんな敗北の中からも民主主義完成の契機がある。 どんなに敗北を重ねても負けない自分がここにいる。それが人間の勝利であり、それ以外の勝利を考えるようになると組織や運動はもちろん、人間の堕落が始まる。』

【閑話休題】採れすぎて始末に困っている茄子を焼きナスにしようと、納屋の隅に眠っていたコンロを持ち出して炭をおこして茄子を焼き始めた。

我が家にプロパンガスが来る前以来、多分60年ぶりのコンロ利用である。バーベキュー用の炭を利用しての焼き茄子だけれど、なんともまだるっこしい。結局は、バーベキュー炉(U字溝を利用する炉)に変更して焼き上げた。コンロを炊事に使っていた頃のまだるっこさ、のんびりさ加減と大変さを久々に味わった。炭火焼きの茄子は、炭火の香りがしてとても美味しかった。

《追記というよりも、リンクです》
『雨宮処凛がゆく!』 第488回
山本太郎が霞む!「れいわ新選組」候補者たちの魂の叫び!! の巻

奇しくも、本日の記事は「八紘一宇発言の三原じゅん子」で始まり、「プレカリアートのマリア」こと雨宮処凛で締めることができた。

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