止揚学園から年に三回発行されている冊子「止揚」が送られてきた。目次を入れても全43頁の小冊子であるが、毎号考えさせられる記事が多い。今回は彦根の井伊文子様の追悼記事が特集されていました。
井伊文子様は昨年11月22日に87歳でお亡くなりになりました。
茫猿は、歌人であり茶人としても著名な井伊文子様と止揚学園との間に永年にわたるお付き合いがあることは兼ねてより承知していたが、その深い事情については知らなかったのである。
井伊文子様とは琉球王朝尚家最後の王のひ孫にあたる方で、井伊直弼(幕末井伊大老)のひ孫になる井伊直愛元彦根市長の奥様である。
世が世なら王家のお姫様と、止揚学園リーダー福井達雨先生のじつに44年にわたるお付き合いについて福井先生がお書きになった追悼文や、井伊文子様の人となりについて多くの人々がしたためた追悼文が掲載されていました。
その記事の一部を止揚学園のご理解を得て抜粋します。
当時、29歳の福井先生は、知能に重い障害がある子ども達の家「止揚学園」を創ろうと走り回っておられました。しかし、若い福井先生を信頼する人は少なく、障害者への差別を取り除こうと考える福井先生を理解する人も少なく、先生はとても苦しく、心が疲れていました。
そんなお二人が、ある機会に互いを知ることがあり、井伊さんが「一度、家に遊びに来て下さい。」と声をかけられたそうです。
福井先生は「琉球の王女の井伊さんか」と思い、「偉い人なんだろうな、ええ格好をして」と思い、井伊さんを訪ねてみようという気持ちにはならなかったそうです。
でも非難と誤解の嵐の中で疲れた福井先生は、「井伊さんの住んでいる井伊大老の下屋敷とは、どんな家やろう。見に行ったら少しは気晴らしになるだろう。」と軽い気持ちで訪問されたそうです。
福井先生は古びた大きな門をくぐって立派な玄関に立たれたのですが、何となく玄関から訪ねるのに抵抗を感じて勝手口に回られたのです。
勝手口に回り「どうせ、お手伝いさんが出てきて、門前払いだろう」と思いつつも、ブザーを押したのです。
しばらくすると、「はい、はい」という声とともに戸が開き、そこには当時40歳を少し過ぎたばかりの井伊さんが立っておられたそうです。
「まあ、福井さんですか。よく来て下さいました。いつ来られるかと待っていました。」と、ニコニコ笑顔で迎えられたそうです。
福井先生は嬉しくなって、「こんにちは」というなり、井伊さんの手を握ったことです。スベスベして白魚のようなきれいな手のはずが、彼女の手はカサカサして荒れていたのだそうです。
不躾に「何で、手が荒れているのですか」と尋ねる福井先生に、井伊さんは「私はお手伝いさんをおかないで、家の者の炊事や洗濯を自分でしています。
それが、私の家族への愛情なのです。」と語られたそうです。
福井先生は、「この方は知能に重い障害をもった仲間たちの思いや、僕の心の中にあるものを分かってくれるんやないかなあ。」と、心が熱くなったそうです。お二人のというか、止揚学園と井伊文子様の永いお付き合いはこうして始まったのです。この出会いのいきさつは、井伊さんも随想集「しなやかに生きる」に書いておられるそうです。
毎年の夏、井伊家のなかにある憩いの家で行われてきた止揚学園のキャンプを歌った、井伊文子様の歌を三首引用します。。
「樹の花燃え尽きる暑さに 数多(あまた)の食器洗って 子ら迎うべし」
「生ごみの重さずっしりと キャンプの食事はゆたかにととのう」
「よだれに濡れた手ひいやり 私の手に包みこんで ああ この子の想いわかりたい」
『合掌』
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