協会における理事会や委員会など公的な場で鑑定協会の組織論を語る時に、多くの会員が使用する用語ではあるが茫猿の嫌いな用語がある。それは「本会」という用語と、「下部組織」という用語である。他にも「先生」という用語もあるが、これは組織論とは関係ない。
鑑定士が互いに「先生」「センセイ」、なかには「シェンシェイ」などと呼び合っているのを見聞きすると、その昔の森昌子唄う「せんせい」の清純さを思い出し、それに較べて目の前で口走っている「シェンシェイ」の薄汚れた響きのおぞましさに耳を覆いたくなるのである。なぜ鑑定士は互いに「シェンシェイ」と馴れ合って互いの愚かさを増幅するのであろうか、茫猿にはとても理解できない。
それはさておき、「本会」である。鑑定業界以外に対しては「本会」で何の不都合もなかろう。でも都道府県士協会との対比において本会は違和感がある。士協会との対比においては日本鑑定協会、鑑定協会もしくは単に全国会であろう。(理由は後述の上下関係とリンクするからである。)
さらに気に入らないのは士協会を下部組織扱いする文言である。士協会は一般的に社団法人格を有する独立組織である。規模の大小はある、所掌エリアの大小もある。でも決して下部組織ではない。士協会は鑑定協会の団体会員ではあるが、強制加入の存在ではないし下部組織に位置づけられる存在でもない。このところを正しく認識していない会員の多さがとても気になるのである。
話変わるが、公益社団法人化であるが、今や公益法人化が必須前提条件のごとく云われることが多いが、果たしてそうであろうか。なかには、「一般社団法人よりも公益社団法人の方が社会的信用力が高くなる。」だから公益法人化であるなどと本末転倒・噴飯ものの議論を展開する鑑定士もいる。「H19.3.20付鑑定協会企画委員会:公益法人制度改革への対応方針について(第一次報告)」の14ページには麗々しく「一般社団法人よりも公益社団法人の方が社会的信用力が高くなる。」と書かれている。このあたりは事大主義であり寄ら大樹主義であろう。もともと会費で運営する組織であり営利事業拡大を目標とする組織ではないのだから課税上の優遇措置がそれほど魅力なのではない。だから制度改革の後において、とうぜんのように公益社団法人を目指すという考えに違和感を感じるのである。
今回の民法社団法人等改正の根幹は一般社団法人の設立を容易にすることにあると同時に、社団(公益)法人を隠れ蓑に税法の特典を利用して蓄財を図ったり課税逃れを行う不埒ものを退治するところにある。鑑定協会が公益社団法人化して税法特典を利用し、下部組織や出資法人を利用して蓄財を図ろうというなら話は別であるが、まさかであろう。であれば、箸の上げ下ろしに干渉される公益社団法人が好ましいか、一般社団法人が好ましいかは別問題である。公益社団法人がよかろうなどというのは思考停止した鑑定士の思い込みに過ぎない。名前で社会的信用力が増すなどと云う寝言の主にはこう申し上げたい。「信用とか信頼というものは、築くに十年失うに一日」である。名前などを頼りにする姿勢は「コンプライアンス、ガバナビリテー、デイスクローズ」を崩すもとであるし、「コンプライアンス、ガバナビリテー、デイスクローズ」といったものを着実に築いてゆくことが信用や信頼を高めてゆく唯一の方法であり結局の近道でもある。何よりも実施する公益事業の実態が理解されれば信用などと云うものは向こうからやってくるものである。
本会呼称と下部組織問題であるが、士協会は自主、自存、自律の組織である。それぞれが、一般社団法人であろうと公益社団法人であろうと任意に選択すればよいことである。「ネバナラヌはならぬ」のである。硬直した発想からは何も生まれてこない、柔軟な思想のもと多様な考えが存在し多様な組織が存在すればよかろうと思われる。連合会化する鑑定協会は連合会でもよし、今のままでもよかろうが地価公示の所掌遂行の観点からすれば単位会団体会員と個々の鑑定士会員の重層化組織として存在すればよい。
例えば、二十人未満の組織だから公益社団法人化は困難という主張が存在する。茫猿はさもありなむと思う。会員数二千人の東京会と単純に比較すること自体がナンセンスであるが、二十人の会には小規模会なるがゆえの利点や長所が数多くあるのであり、ただひたすらに東京会を真似ることが良いわけがない。財政的にあるいは人的資源的に東京会には及びも付かないけれど、全員がフェース・ツー・フェースで語り合える組織の良さは何物にも優る場合がある。また、外形的組織を整えることのみが必要である理由は何もないと云えるのかもしれない。
そこで最も重要なことは、業者会員を否定することである。全ては鑑定士個人会員と単位会団体会員に収斂すべきである。当然、会費も個人会費と団体会費の二区分に集約すべきである。業者会員を存続させたい単位組織は鑑定業者を会員として存続させればよいが、その場合には鑑定士協会という呼称はご遠慮願うべきであろう。なぜなら名は体を表わさないからである。
如何であろう、鑑定協会は組織的には矛盾の塊である。それをそのままに温存するよりも少しでも変えてゆこうという姿勢が最も求められるのではなかろうか。
そしてこのような、都道府県士協会や地域連合会など単位会やブロック会組織的には多様性や柔軟性を認めるなかで、個々の自主、自尊、自律と云ったものはが十分機能するように図るべきであろう。
全国会(連合会等)を鑑定士組織に収斂させることにより、鑑定法人の法制化へも道が開くのではなかろうか、弁護士や公認会計士、税理士と異なり、「鑑定法人の法制化」は至難であろうが、証券化不動産評価業務や時価評価等は大量、短期間、持続処理が得意な鑑定法人の誕生を求めているのでなかろうか。出資関係どころか明確な子会社鑑定事務所が証券化不動産評価業務をクロスチェンジして請け負うような風潮は根絶されなければならないのである。
李下の冠、瓜田の沓的な組織の存続を容認していては、鑑定法人制度化などは百年河清を待つのに等しいのである。故事に云うではないか、天は自ら助くるものを助くと。
折しも、こんな表現に出会った。鑑定業界の組織論と直接的にはなんの関係もないが、組織論を考える鑑定士の脳髄の深層にはこのような硬直化した或いは皮相的な観念が往々にして潜んでいるのではなかろうか。
『想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ、ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム、僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか ーーー もちろんそれもとても重要な問題だ。
しかし、そのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取り返しはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこに救いはない。(村上春樹著:海辺のカフカ:上巻第19章より)』
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