秋葉原の悲惨とも陰惨とも言い難い通り魔事件を知り、今に生きる人たちのなかの幾人かの心に潜む深い闇を思いますとき、ふと、心に浮かぶのは石川啄木の歌です。
友がみな われよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て 妻としたしむ
報道から知る彼の経歴のみから、何かを想像すべきではないのでしょうが、将来を嘱望されて故郷を離れてのち、市井の片隅で将来に希望を見出せず、ひっそりと生きる人たちの思いはいかばかりかと考えます。
はたらけど はたらけど 猶わが生活
楽にならざり ぢっと手を見る
東海の 小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて 蟹とたわむる
非凡なる 人のごとくにふるまへる
後のさびしさは 何にかたぐへむ
改革の名のもとに既存の制度を壊したまではともかく、その後の制度設計も無くセイフテイネットも壊したままに、年間に三万人もの自殺者をだす日本の壊れようを思います。彼の虐殺行為を新自由主義・ワーキングプア・格差社会のせいにするわけには決してできません。でも第二の彼を出さないようには考えなければならないと思います。
頬につたふ なみだのごはず一握の
砂を示しし 人を忘れず
ふるさとの なまりなつかし 停車場の
人ごみの中に そを聴きに行く
ふるさとの 山にむかいて言うことなし
ふるさとの山はありがたきかな
故郷は帰るものにあらず、ただ偲ぶだけのものとなっていたのは、秋葉原の彼だけではないように思います。企業社会が正社員と派遣と請負とパートに分断されて壊れたように、地域社会も家族も寸断され細分化され砂のようになっているのだと思います。
たわむれに 母を背負いてそのあまり
軽きに泣きて 三歩あゆまず
理不尽とも不条理ともいいようのない通り魔に襲われてお亡くなりになった方々に、お悔やみを申し上げます。東京に住む縁者がこのような事件に遭遇したらと思えば身震いがします。史上空前の豊かさのなかで、格差のみが広がり敗者復活を待とうとしない、ただただ忙しいだけの現代を思えば、乏しさや貧しさを分かち合った時代が懐かしく思えます。折りしも地元中日新聞が「結いの心」と題して、トヨタ自動車の内情リポートを特集しています。
また、「世に倦む日々」氏は、この事件の背景について、このような見方を述べています。
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