宋文洲と石川遼

 宋文洲と石川遼と題しましたけれど両者に何の関係もありません。 ただ最近の宋文洲氏のメルマガ記事「マスコミは国民のレベルを代表する」と、先週の石川遼選手マスターズ予選落ちになにかしらの共通点を思うのです。


 宋文州氏は最近のマスコミのというよりは記者の幼稚さを取り上げて、同記事のなかでこのように云うのです。

 サラリーマンに徹底しているマスコミ(記者)は独自な視点を持てず、大多数の民衆の望む方向にカメラとペンを集中させるのが良くないというならば、大手にしがみ付き、チャレンジと創業精神を失い、マスコミに同じ結論を求める国民はどうなんでしょうか。

 ”国民のレベル以上の政治家を望むことはできない。”と言い放った政治家が数十年前にいました。けだし名言だと思います。 同じように宋氏は国民のレベル以上のマスコミを望むことはできないと言うのだと思います。 総理記者会見に限らず、番記者達の幼稚な紋切り型質問だけでなく、スポーツのインタビュー、事件関係者へのインタビュー、皆同じです。
 ”そんなこと聞いたところで、答えは同じだろう。答えられる訳もないだろう。”と思えるに、相も変わらず間の抜けた質問を繰り返すお馬鹿記者の羅列はいったいなぜだろうかと考えてみれば、それはTV視聴者や新聞購読者のお馬鹿さ加減を映し出しているに過ぎないと思えるのです。 マスコミは多分こう嘯く(ウソブク)でしょう。 ”そんなこと言ったって、国民は難しいことを求めてはいません。面白くおかしいことしか求めていません。” 
 民放TVのバラエティにもならない、使い捨てタレント達の楽屋オチ話や弱いタレントイジリに終始する番組に、飽きもせずチャンネルを合わせ続けている視聴者が愚かなのでしょうし、十年一日のごとく販売部数の多さを競うのみで、記者クラブ発表を垂れ流す新聞宅配を購読し続けている購読者が心貧しいのでしょう。
 さて石川選手ですが、彼の素質のすばらしさは認めなければならないと思います。史上最年少でツアー優勝を果たした彼の素質と努力、ゴルフに打ち込む勇気は賞賛されてよいものでしょう。 ですがマスターズ招待には疑問が残ります。 TV放映権料と「彼の招待」に(彼は規定による招待ではなく、特別招待)、何らかの因果関係有りと思うのは穿ち過ぎでしょうか。 その彼に過大な期待をかけ続けたマスコミの報道姿勢にも疑問を感じます。 ああいうのを『贔屓の引き倒し』と云うのだと思います。 あたら俊才を押し潰しかねない、今盛り上がって視聴率が取れればよい、販売部数が増えればよいといった刹那主義を感じてしまうのです。
 たかがゴルフ、目くじら立てなさんなという声も聞こえるようですが、WBCのイチロー選手の扱いも同じように感じました。 それは民主党のイチローさんについても同様です。マスコミの無責任さ、刹那主義、視聴者や読者を愚弄する思い上がり、全て私たち一人独りが賢くならないと正されてはゆかない悪弊なのです。
『追記』
 そんなマスコミ批判のついでにNHK教育TVを礼賛するわけではないが、日曜日夜の教育TVは心に残るというか、明日へのヒントを与えてくれる番組が多かった。
日曜美術館 国宝 阿修羅展
N響アワー
芸能花舞台 春の風情・舞踊二題
ETV特集「鶴見俊輔~戦後日本 人民の記憶~」
 こんな番組編成に出会えば、NHK視聴料もさほど高くはないと思える。 月末の東京&北関東行きに楽しみがまた一つ増えたというものである。
国宝・阿修羅展覧会』 2009年3月31日(火)~6月7日(日) 東京国立博物館:平成館
鶴見俊輔:悼詞(とうし)』 哲学者鶴見俊輔の知人友人125名に贈る追悼文集
 

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