問われる覚悟

 先号記事では『不動産鑑定士は市民として、あるいは市民が構成する団体としてという意識を常に持っていたいと思います。 鑑定士である前に市民でありたい、結果的に不動産について専門的知識・経験を持つ市民だったということでありたい。』と書きました。
 なぜに今さらのごとく、そのようなことを改めて言うのか、このことについて、もう少し敷衍してみたいと思います。


 3.11震災は日本人に、原発事故や地震の大きさ、津波の高さに言われた「想定外」、さらには「経済効率重視」、「自然制御」という考え方を継続するのか、転換するのかを問うていると考えます。
 この問いかけに答えを用意することのない見切り発車的復興は、畢竟、哲学のない復興であり、創造的復興と言いながら、かつて辿った道を繰り返すこととなると考えます。
 理念無き生き方(復興)は、まさにかつて揶揄されたエコノミックアニマルの再現であると考えます。 鑑定士並びに鑑定協会にその哲学構築の覚悟有りや無しやが問われていると考えます。
 現地では、多くの死者並びに行方不明者について葬儀も終わっていないのですし、原発関連では新たな避難が始まろうとしているのです。 現地で、東京発の新聞報道を読むと、怒りがこみ上げてきます。 背広にアタッシュケースのビジネスマンを見掛けると、復興の名のもとに群がるエコノミックアニマルを見る気がして、ヘドロをかけてやりたいような気になったものです。
 文学的・観念的に過ぎるのかもしれませんが、蝦夷征伐から戊辰戦争に続く、中央政府が東北に示した態度が今も続いているような錯覚がします。 だから、四十九日も終わらないうちに復興を云々するよりも、まず被災者の生活復旧、そして新しい復興であろうと考えるのです。 そんなことを言っても現実は待っていてくれないという声が聞こえてくるような気がします。 夏場の電力需要を考えれば原発の継続、被災地の雇用維持を考えれば従来型インフラ整備の継続、などなどの現実論の蔓延を危惧します。
 不動産鑑定士は社会のなかで不動産鑑定評価を業とする職能家であり、不動産鑑定協会はその職能家が構成する集団であります。 そして不動産鑑定評価業務の少なからぬ部分は、官公庁からの依頼によるものである。 地価公示は国交省、地価調査は都道府県、相続税評価は国税庁、固定資産税評価は市町村、それぞれの所管官公庁からそれぞれの依頼目的に応じて業務を委嘱されて遂行してきました。 また競売関連評価業務は所管執行裁判所からの委嘱によるものである。
 それら業務の遂行に際して、不動産鑑定士は公平・中立を旨としながらも、依頼者の円滑な行政等業務施行に寄与するべくという立場にあったことは否めないことである。いわば、その立つ位置は行政側にあったともいえるのである。
 不動産の証券化業務関連や、時価評価等エンジニアリング・リポート関連については、依頼企業体の側(都市型経済の側)に立つことが多かったといえよう。 これらは何も評価が公平・中立性を欠いていたというのではない。 総じて成長指向であり、経済効率重視であり、自然と人間社会という観点からすれば、自然を制御し凌駕するという指向性が強かったと云えよう。
 3.11震災は、そういった効率性重視や自然制御感覚や成長指向について、再考を促していると私は考えているのである。 原発はいうに及ばず、3.11以後に多く語られてきた『想定外事項』とは、「全く予見しなかった」ということではない。「予見はしていた、そういう想定が存在することは承知していた。 しかし、ある閾値を超えた想定条件への対応は、費用対効果という観点からの経済的な効率を著しく低下させるものであり、想定しなかったというのが「想定外事項」の意味であろう。 それはまた効率性を重視する行政行為・経済行為のある種の限界を示すものでもあろう。
 マグニチュード8.0には経済的に対応できても、9.0には対応しきれないという実情こそが、自然を制御することで経済成長を実現し経済行為の効率性を高めようとしてきた行政行為並びに経済行為の然らしめるところでもあったのである。 ところが3.11震災は、成長をある程度犠牲にしても、自然との調和、融和、共存を求めるべきではないかという考え方が注目されるようになってきたと考えます。
 この時に不動産鑑定士は被災住民の側に立つ、せめて被災自治体の側に立つ覚悟はあるのかが問われていると考えます。 今回の災害は都市型災害ではない、農漁村型災害であると考えます。そこが阪神淡路震災とは大きく異なるところであろうとも考えます。 阪神淡路震災は大震災でしたが、比較すれば被害の軽い六甲山側エリアがありましたし、隣には京都、大阪から姫路に至る都市圏域が連続していました。自治体は機能していましたし、居宅は崩壊し焼け落ちても職場の喪失は東北ほどではありませんでした。すべてが似て非なるように思えます。
 不動産鑑定士は被災地域住民組織の支援の側に立てるのかという、覚悟が問われている。自然を制御しようとする側に与(くみ)するのか、自然と共存しようとする側に与するのかが問われているのです。
 都会のエアコンがきいたビルの中でパソコンを駆使して復興計画を起案するのか、被災地域に滞在し、被災住民のなかで被災住民とともに考えられるか、彼らと一緒に考えるというよりも、彼らの議論や模索に専門家として助言する立場に立てるかということではないのかと考えます。
 東京に代表される都市圏域のために電力供給を維持するのでもなく、都市圏のための、水・酸素・農水産物の供給基地に甘んじることを続けるのでもない、新たな哲学が求められていると申せば「書生論」と都市圏域住民からは冷笑されるでしょう。
 空理空論を承知の上で申せば、私は東北自治州を提唱します。 東北の復旧・復興には、東京以西の支援が不可欠でしょうが、東北からの電気、水、酸素、そして生産物資の供給無くして都市圏域の経済も生活も成り立たないのも、また厳然たる事実でありましょう。 だから、東北自治州は何を目指すのか、自らの方向性を自ら示してほしいと願うのです。それがまだまだ見えてこないのですし、それどころではないのでしょう。
 分散型、iNet型、リスク分散、多極型、伝統産業の見直し、伝統文化の継承、機能優先都市型社会から新しい伝統文化継承村落型・町型社会の構築、揺らぎを楽しむ社会へ転換する。 グローバル指向型社会から有機的ネットワーク指向型社会へ移行する。 そういったキーワードを考えたいのです。
 まだ上手くまとまりません。推敲も不十分です。 でも鑑定士である前に市民であれと申し上げるのは、そういったことなのです。
 直面する課題、すなわち津波被災地の買い上げ借り上げ価格の評価方法、原発風評被害と評価、公示・調査や固評・相評の取り扱い等々、鑑定士として提言できることは多いと考えます。 ですが同時に並行して、社会的視点を持つ鑑定評価、あるべき価格論などの準備が問われていると考えます。
 鑑定士としても現地に足を運び、現地に滞在し現地の様々な人と会い話を聞き、実情を知り要望を伺ってから、地元と共に復興策を考えるべきであろうと思います。 その手懸かりとしては、現地市町村での相談会開催などを検討するべきではと考えます。
 地元士協会単独では人手が足りないでしょうから、近県を中心に全国から応援し、同時に他の専門家団体との共催も必須でしょう。 先ずは復旧支援を実行する、日常的困りごとに助言をする、というよりも聞き役を務める、そのなかで並行して地元と一緒に復興策を考えてゆく、そんな行程が必要なのだと思っています。 でも、そのような活動が可能なのか、現地にとけ込む活動を行う用意と覚悟があるのか問われていると思っています。
 瓦礫の山と異臭が漂う海辺、でも一山越えれば平穏な常に変わらない風景がある。 すべてを失いながらも、3.11以前の生活を取り戻したいと希求する人々に、何を支援すればよいのか、何を申し上げればよいのか、茫猿自身もさまよっています。
 最も重要なことは、いずれ襲来が避けられないであろう『東海・東南海・南海そして関東直下型地震』に耐えられる、しのぎ得る社会の構築とは何であろうか、まさに東北だけのことではない、自らのこととして考えなければなりません。 巨大技術、巨大都市に過度に依存する一極集中・高度機能型社会に潜む脆弱さ危うさを問い直したいのです。

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