自筆の温もり

今朝は立秋過ぎを実感させる涼しい朝だった。 とはいえ、まだ旧盆前、さすがに昼近くになれば30度を軽く超えている。 日中はアブラゼミがうるさく鳴いているが、朝方はツクツク法師が鳴き始めていた。ヒグラシが鳴き始めるのもそんなに遠くはないことだろう。 高い空が澄み、木陰が色濃く、軒端を過ぎてゆく微かな風に秋を感じる、この季節がとても好きです。

早朝暗いうちから、旅先で断片的に書き続けてきたことをまとめて『鄙からの発信』にアップしたのだが、アップしたあとで脱力感を感じている。 e.MailやFB、それに架かってきた電話などからは、先行き好転を思わせる情報は何一つ無い。 先行きの暗転を思わせることばかりである。 所詮、蟷螂の斧、茫猿の遠吠であることは先刻承知している。 承知はしているが、一縷の希望を持っているからこそ飽きもせず書き続けている。負け戦から始まるとも「負け戦にかける」とも、思っているからである。

そんな折りもおり、「まけいくさにかけ続けて50年」、連載も99回を迎えた冊子「止揚」が送られてきた。 今回は巻頭言を転載させていただきます。

「自筆の温もり」(止揚第115号巻頭言より転載・著者福井達雨先生)
自筆で手紙を書くと、若者たちから「大変でしょう。メールで送ったら楽ですよ」と言われる。自筆で原稿を書き、雑誌社に送ると「ワープロで送ってください」と注意を受ける。

現代は人間の心の言葉よりも、機械が生み出す文章の言葉の方が大切になってきているようだ。しかし、機械の言葉は、人間の心の温もりが伝わってはこないことを思う。

文章というものは、ただの文字だけではなく、活き活きとした心の温もりが伝わってくるものである。自筆にはその見えないものが豊かに詰まっている。自筆を軽視することは人間の心を大切にしないことである。心の欠けた、温もりの消えた文章は、なんと虚しい文章だろうか、その文章が広がっていく現代は、なんと寂しい時代なのだろうか。

その様な虚しい、寂しい時代を作らないためにも、自筆を大切にする心を、もっともっと育てていきたいものである。 《引用終わり》

茫猿も自筆を大切にしています。
茫猿は稀代の悪筆ですから、本来自筆は好みません。 でもお中元やお歳暮の到来御礼、何かのお世話になったお礼などに、電話、e.Mail、改めて手紙を書くことよりも、葉書による取り急ぎの礼状を大事にしています。 ただし葉書の文面一杯に悪筆を書き込むのは一仕事ですから、絵葉書を重宝しています。 旅先で気に入った絵葉書を求めて机の引き出しにストックしています。 礼状を書かねばならないと葉書を取り出し、先様の気に入りそうな絵柄を選んで、相手先住所の下半分に数行の礼文を書きます。 時には切手までも選んで、先様のお顔を想い浮かべながら、できた葉書を投函すると心和むのです。

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