長いこと記事を書いているし、既に累積記事数は2600を越えている。今や三千号が生きる目標になりつつある「鄙からの発信」なのである。 だから記事標題が重複するのもやむを得ないことである。「梅雨明け十日」という標題は既に2010/07に使用済みだったのである。特に脈絡・連関はないけれど、だから本号は続々なのである。
前号記事では、憲法前文を引用したりして、何やら焦点ボケの記事となった感がある。「鄙からの発信」が小泉ファナテイック政治や小泉劇場型政治に異議申し立てしたのは、2001年07月のことだった。
それから十五年、飽きることなく倦むことなく異議申し立てを続けてきた気がする。いわば負け続けた「鄙からの発信」であり、負け戦ばかりの「鄙からの発信」である。何も政治論争だけでなく、斯界の在り様、鑑定評価の在り様についても同様なのであろうと振り返る。
それでも言い続けなければならないと考える。語り続けることが戦前生まれの義務であり、戦争体験者の謦咳に接してきた者の義務であろうと考えるからである。 衆議院採決でお終いではないのである。参議院審議もあるし、来年に予定される参議院選挙もある。裁判所による違憲審査だって存在する。そういった意味では、これが始まりなのであり、改めて、福井達雨氏の「負け戦にかける」を思い起こし、 久野収氏の「どんな敗北の中からも民主主義完成の契機がある。 どんなに敗北を重ねても負けない自分がここにいる。」を思い起こさねばならない。
日本を取り巻く安全保障環境が大きく変化していると政府与党は主張する。尖閣諸島問題、南沙諸島問題を筆頭として中国の軍事的プレゼンスが大きく増しているのは事実であろう。しかし、軍事には軍事、力には力という反応は際限ない軍拡競争に陥るものであり、ますます歯止めがなくなるものである。 個別自衛権に限定し、専守防衛を国是とする戦後七十年の日本のあり方を変更しなければならない理由は何処にも認められない。まして専守防衛から大きく踏み出す行為は明らかに憲法違反であり、立憲主義を踏み躙るものである。
国民はもっと関心を持つべきである。是々非々はともかくとして、もっと関心を表わすべきである。 国民が無関心であることは、与党にとって「やり易さ」という追い風となるものであり、野党にとっては「のれんに腕押し」的な虚しい逆風となるのである。マスコミだって。事なかれ主義や事大主義になってしまうだろう。 せめて、胸の中で「そうはさせじ、そうはならじ」とつぶやくことから始めよう。 そして、「俺たちはそれほど馬鹿ではない。」とつぶやこうか、それとも叫ぼうか、吠えようか。
アイゼンハワー米国大統領が離任演説で「産軍複合体」の存在とその影響について告発したのは、半世紀も前のことである。日本ではその影響力は限定的であると考えられてきたけれど、自衛隊の強化と購入装備費の拡大は年々肥大化の一途をたどっている。自衛隊の機能強化、装備の充実、そして武器輸出の解禁などと今回の安全保障関連法案の提案が無関係であるはずは無いのである。 安倍総理の背景は戦後レジュームの再構築などといったポエムではなくて、再配置される米軍の肩代わり、武器輸出解禁による産軍複合体への利益供与などといった俗っぽいものというのが、意外な真実かもしれない。 総理の背後に鎮座するのは、米国大統領及び米国産軍複合体、そして日本の産軍複合体と日本会議なのであろう。
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