彼岸入り・敬老の日

お彼岸の入りは敬老の日でもある。敬老の日、秋分の日、土曜日曜・有給休暇を組み合わせれば17日から25日まで九日間の連休、シルバーウイークである。朱夏が終わり白秋が到来する頃に敬老の日があり、シルバーウイークがある。華やぎ沸き立つ陽春五月ゴールデンウイークに較べれば、玄冬がちかくに望める敬老の日でもある。


敬老の日とは云うものの、世間では棄老、捨老の如き話が溢れている。老齢離婚に高齢破産などと身につまされる話も少なくない。古稀を越えた我が身であれば、敬老と祝われるのは何歳の頃からのなかと調べてみた。

高齢者について厚生労働省は、高齢者の医療制度を前期高齢者と後期高齢者に区分して、前期は65歳から74歳までとする。後期高齢者は75歳以上である。年金支給開始年齢は男女によって異なるが65歳へと引上げられつつある。年金支給開始年齢の引上げに伴い、就労制度における定年も65歳へと引上げられつつある。

それもこれも平均余命や健康余命の高年齢化すなわち高齢者人口の増加に影響されてのことであろう。茫猿が住まう町の敬老の日記念行事を町広報で確認してみたら、75歳以下は祝賀対象外であり、喜寿77歳になれば祝い金3千円也が給付される。以後、傘寿80歳、米寿88歳、卒寿90歳、白寿99歳に達する毎に祝い金が給付される。古稀70歳は対象外であるが、支給対象者があまりにも多すぎるからであろう。70歳など古来稀れでも何でも無くなったということであろう。《2010年統計では百歳以上の方は二名在住とある。

今や、高齢者が尊敬あるそれなりの扱いを受けるのは90歳以上からなのかもしれない。七十歳くらいではメランコリックになってなどいられないのであり、祝われる側ではなくまだ祝う側なのである。73歳などは、まだまだ未熟者扱いなのであろう。

購読している新聞に「百歳超えの著名人特集」が掲載されていた。百歳を過ぎてなお矍鑠たる著名人は、皆が己の人生に目標を持っている。百歳を超えてなお、人生目標があり、ライフワークに勤しむのである。無名人であったとしても、日々の暮らしに何かの目標を持って生きておられるのであろう。

我が身に振り返って「さあー、どう生きる。どう暮らす。」と、考えた時に、はたと戸惑うのである。長年の就業経験を生かしてみたいが、鄙里では適当な場所も機会も無い。へたにしゃしゃり出れば後輩たちの邪魔者になるだけである。であれば、畑仕事や野良仕事をして、何がしかでも近隣の景観保全に役立てばと思い、時には息子や孫たちの憩いの場にでもなればと思いつつ、万が一の時には彼等のシェルターになればと思っている。数年前に九十歳前後で逝った両親も、そう思いながら日々を過ごしていたのであろうと思い出す。ふる里とか鄙里とはそういうものであろうと考えている。ルーテインワークを淡々と怠り無く日々こなしてゆくのも我が余生なのだと思うのである。

とは言うものの、何やらつまらないし、一抹の寂しさも隠せない彼岸入りである。

彼岸入りの朝、仏壇に灯明をあげ正信偈を声高く読む。友の墓へ彼岸参りをし、彼の老妻を見舞おうか考えたけれど、台風が近づいており風雨が激しくなりそうだから、またの機会とし、彼にも届けと声を高くするのである。土手では彼岸花が今年も変わりなく咲き始めている。日の出と日の入り時間に合わせて咲き始めるのであろうが、律儀なものだ。仏壇には畑の変り菊を摘み取って供えてみた。
20160919higanbana  20160919butudan

 

《追記》この頃ようやくに気づき出したことがある。
それは、亡き人の記憶についてである。人に限らず生き物は命を失えば地上から消え去ってゆく、有機物から無機物に転じると云ってもよい。次世代に引き継がれたDNAを除けば生命に関わって残されるものは何も無い。だけど、その人の記憶は脳髄のなかに残されるから、追憶することはできる。

《写真などの映像や書き残したもの、遺品、関わった事績などというものは、亡き人の記憶を伝え蘇らせる一つの術であり手段なのである。》

残念ながら記憶は歳月とともに風化してゆくから、幾つかの記憶は削ぎ落とされ、そのなかの確かなものだけが残ってゆく。残ってゆくとは云っても、時に記憶が変形してゆくことも避けられない。ちょうど枯れ木が風雪に削ぎ落とされてゆくように、あるいは池に沈んだ樹木が埋木に変わるように転じてゆく。

これらの記憶は、記憶する人の脳髄のなかだけに残され生き続けるのであるが、もう一つの残されるものがある。残されるものと云うよりは生み出されると云えるのかもしれない。それは亡き人を巡って交わされる対話などのなかに存在し、束の間生み出される。追憶が脳髄のなかに亡き人が甦るものであるとすれば、亡き人を巡って交わされる対話という空間のなかに醸し出される。だから、亡き人を巡る対話は蘇りにも似ており、悲哀や喪失感に沈む人にとって、かけがえの無い癒しにもなるのだろうと思われる。

 

 

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