雪の野面

雪降った翌日、穏やかに晴れた日は静かである。風の音もなく、鳥の声も聞こえてこない。そんな閑かな野面を、何することなく眺めていると、今はなき人たちを思い出す。父母のこと、弟のこと、叔父叔母のこと、かけがえのない友のこと、様々な人たちのことが次々と浮かんでは消えてゆく。

父母や中村を喪ったしばらくは、嘆きの隙間を埋めようもなく思ったものだが、過ぎ去った月日のうちに積み重ねられていった日々の暮らしの澱(おり)のようなものが、彼らの喪失感を埋め、彼らの記憶を澱の底に鎮めていったようである。

《つぼみ膨らむ白梅》《雪中水仙》《雪中の葱》

今浮かび上がって来る彼らの記憶は、笑みとともに浮かび上がり懐かしい穏やかなものである。月日は悲しみも癒してくれると云うことを、この頃はまざまざと実感させられている。哀しみの底に浸りきっていることも、やがてその哀しみを澱の底に鎮めてゆく道筋の一つなのだと納得している自分が此処にいる。

自分より歳おさの者がいなくなっても、かつてのように嘆くことはもうあるまいと思っている。歳おさの者や同輩の人たちが居なくなるたびに、次には己の順だと思うことであろう。そして、その機会を重ねる毎に、自らの死を迎える形が整ってゆくのであろう。

老少不定とは世の理りだから、次が己と定まっているわけではないけれど、万歳の生など有り得ぬことであれば、遅かれ早かれ来り来る己が死なのである。そんな思いで雪の野面を眺めていると、ドサリと枝に積もった雪の落ちる音が聞こえてくる。
【 冬ひざし ドサリと落ちる 枝の雪 (茫猿)】

《鄙里の雪景色》

《野面に残される足跡は野良猫かイタチか》
【 雪野面 何処へつづく ケモノみち (茫猿)】

長命を願う気持ちはさほどにないが、まだ今ではないと云う気持ちもある。それでも同輩の皆を送ってしまってからでは遅すぎるし淋しすぎるとも思っている。程々が良いのだ。

晩年の母の口癖は「オトーさんも私も、もういい加減に逝かないと”信夫(息子)”に迷惑をかける。」と云うものだった。母の口癖のとおりに、二人ともに長患いもなくあっけないほど見事に鮮やかに旅立っていった。

 

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