9条入門

「9条入門」は2019.04.20に創元社より刊行された。発刊から一ヶ月も経っていない2019.05.16にお亡くなりになった加藤典洋氏の遺言ともいうべき書である。著者は『憲法9条』がどのようにして生まれたから書き起こして、朝鮮戦争や東西冷戦の激化にどのように影響され、サンフランシスコ講和条約(単独講和)にどのように影響したかを語りつむいでゆく。茫猿がこの書の発刊を知ったのは内田樹氏のブログによってである。
9条入門』(創元社) 「憲法の日に寄せて」(内田樹)

茫猿は不動産鑑定士など”人のあり様”に深く関わる専門職業家には、リベラルアーツの厚みが必須であろうと考える。そのリベラルアーツの扉を開くものの一つとして「9条入門」は相応しいものと考える。創元社の惹句内田氏の推薦コメントが「9条入門」に近ずく道標となろうが、茫猿自身の読後感も何かの手助けになれば幸いである。

1946年11月3日公布、1947年5月3日施行の日本国憲法はその公布文の上諭に、次のように記している。(上諭:君主が臣下に諭し告げる文書)

『朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。 「御名 御璽」昭和21年(1946年)11月3日 』

現行憲法は敗戦後間もないというか、戦後一年と三ヶ月も経ない時期に枢密院と帝国議会貴族院と衆議院の議決を経て(帝国憲法の改正として)天皇が裁可して、公布されたものであり、旧憲法73条に規定のない国民投票は経ていない。また、改正憲法草案がGHQ草案を背景にして(急きょ)作成されて、政府より公表されたのは敗戦後一年も経ていない1946年3月6日のことである。何よりも現行憲法は昭和天皇が裁可公布するものである。

さらに、現行憲法は帝国憲法の改正という形態を取りながら、全く連続性を保持していないのがその実態である。このことは(帝国)旧憲法1条 11条 12条と(日本国)新憲法1条 9条を対比してみれば一目瞭然である。
(旧憲法 第1条) 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
(新憲法 第1条) 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

(旧憲法 第11条) 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
(旧憲法 第12条) 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
(新憲法 第9条) 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(新憲法 第9条2項) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

旧憲法において、天皇は”皇男子孫が継承し”、神聖にして侵すべからざる存在であり、日本国の”元首にして統治権者”であった。すなわち、天皇は「主権者」であった。 新憲法において「主権者は国民」であり、”国民の総意に基づき、日本国の象徴”であり日本国民統合の象徴であると定められている。皇位は、世襲のものであり、内閣の助言と承認により国事行為を行うが、”国政に関する権能”は有しない。新旧両憲法を対比してみれば、新憲法が旧憲法を改正したものとは、とても言い難い。さしづめ旧憲法を廃止し、新憲法を制定したごとくであり、両者に連続性は認められない。

改正憲法草案がGHQから押し付けられ、その中に憲法1条・象徴天皇と憲法9条・戦争放棄が書き込まれていたことは学生時代に”何となく”学んでいたけれど、中学高校の授業ではどちらも明治維新から日露戦争くらいで時間切れだったし、入試出題範囲にも入っていないと教えられた記憶がある。神話とも伝説とも紛らわしい遠い時代から歴史を学び始めるよりも、両親や祖父母など身近な人たちが経験したあるいは影響を受けた、近現代から学び始めるのが興味も深かろうと考えるのである。 何よりも神話や伝説の時代の事柄などは、知っていようと知らなかろうと生活に何も関わらない。

9条の背景や1条の意味を知ることは、そのまま明仁上皇の”為されよう”を深く知ることにつながるのである。同時に明仁上皇が目標として向かわれた方向もよく理解できるのである。  ”憲法1条:象徴天皇”は、”憲法9条:戦争放棄、軍事戦力非保持”と対になっているのだと加藤氏は云う。 GHQ(連合国軍または進駐軍総司令部General Headquarters)の日本占領政策の円滑な遂行を目標とし、同時にGHQ総司令官(占領軍総司令官)マッカーサー元帥は1948年の米国大統領選挙へ出馬する為に占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んでいた。

国内外に残存する400万人もの日本軍の円滑な武装解除、及びその後の占領行政の混乱なき実施のために昭和天皇の存在を利用することを意図し、米国及びGHQは天皇の戦争責任は追求しないこととした。

それは他の連合国、ソ連、中国、英国などの求める昭和天皇の責任追及の声を押え込むものであった。1945年9月27日に行われた初会見時に撮影された、緊張が見える礼装直立の昭和天皇とノータイ開襟シャツで腰に手をあてるマッカーサー元帥との、あまりにも有名な記念写真はそれらの背景を如実に物語っている。

1933年生まれの明仁上皇は1945年当時は12歳であった。12歳の継宮明仁親王が、父君昭和天皇が戦犯として戦争責任を追及されるかもしれないと云う、敗戦後間も無い不安な日々をどの様に感じ、どの様に過ごされたか、察するに余り有るものがある。一般市民だって上陸してくる米軍を不安な気持ちで迎えたのである。当時は父が徴兵されて母子家庭だった我が家では、私と弟の幼児二人を抱えて養老山に逃げることもできなかったと、生前の母が語ったことがある。

そしてそれらの出来事は継宮明仁親王が皇太子となり(1952年立太子の礼)、さらに1989年に即位して天皇となられた後に、象徴天皇としてのあり様を常に模索する日々に深く影響するものと為ったであろう。

『即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。』象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば:平成28年8月8日

占領下にGHQに押し付けられた憲法草案を下敷きとする現行憲法であるが、加藤典洋氏は憲法9条についてこう述べる。「9条に記載される”戦争放棄”は他国からの強制であったが、これを日本人は自発的な選択につくり替えるよう努力してきた。」

また、こうも述べる。「ほんとうに憲法9条を大事に思うなら、その弱点も しっかり見すえる必要があるのではないでしょうか。」更に、こうも述べる、「ただ有り難がるだけで、一切の批判を拒んでいては、『憲法9条に負けてしまう』ことになります。」

70年余も前に押し付けられた憲法9条であるとしても、それを如何に理解したのか、如何に実現しようとしたのかが、今こそ問われているのだと茫猿は考える。また、即位二十年に際しての記者会見で明仁上皇(当時の天皇)は、こうも述べられている。

「私がむしろ心配なのは,次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は,非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年,1928年昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが,張作霖爆殺事件でしたし,3年後には満州事変が起こり,先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。

第1次世界大戦のベルダンの古戦場を訪れ,戦場の悲惨な光景に接して平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。昭和の60有余年は私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います。」
即位二十年に際しての記者会見

憲法9条は1条とセットとして考えるべきであり、その成立の背景を虚心坦懐に学ぶことから始めるべきであろう。押し付け憲法だから改正するのだと云う議論は拙速に過ぎる以前に、昭和史に学ぼうとする姿勢に欠けていると言わざるを得ない。 もう一度即位二十年に際しての明仁上皇の言葉を噛みしめたい。『昭和の60有余年は私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って未来に備えることが大切と思います。』

(注)当時皇太子であった裕仁親王(昭和天皇)によるヨーロッパ各国の歴訪の途次、1921年6月25日早朝に皇太子裕仁親王はメスを出発し、べルダンの戦いの戦跡を訪れた。かつてこの地で戦ったペタン元帥の説明は、極めて詳細にわたるものであった。裕仁親王は銃撃された鉄カブトをながめ「戦争というものは、じつにひどいものだ。可哀想だね」と涙ぐんでつぶやいたという。

欧州歴訪の旅は、1921年3月3日に裕仁親王御召艦香取と供奉艦で旗艦鹿島による遣欧艦隊が横浜港を出港した。一行は沖縄、香港、シンガポール、セイロンを経て、4月15日、一行はイギリス領エジプトのポートサイドに到着する。5月7日イギリス到着、5月18日スコットランド到着、5月30日フランス到着、6月10日ベルギー到着、6月15日オランダ到着。

6月20日ベルギー、フランス再訪、6月25日ベルダン戦跡訪問、7月11日イタリア到着、7月18日戦艦香取と鹿島は帰途につく。9月3日香取・鹿島は横浜港に入港する。《出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』》

《追記》敗戦時またの名を終戦時と云う1945年当時に20代だった人たちは、既に95歳を超えて多くが鬼籍に入った。10代だった人たちも85歳を超えている。当時は幼児であった最後の戦前生まれである茫猿世代も75歳を超えた。自らが戦争を体験した両親や伯父伯母から肉声で体験を語り伝えられた茫猿世代も後期高齢者世代となり、戦争体験の風化が著しい。こんな今であればこそ、昭和前期の歴史的事実を詳しく正しく知ることが将来への礎になるものと考える。歴史修正主義者などに惑わされてはならないのである。

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