あれも、これも、好いもんだ

客があるとは好いものだ。久しぶりに事前に連絡をいただいた夫妻の来客があった。突然の来客であれば、そそくさと有りの侭で、さしたるおもて為しもない応対となる。ご連絡をいただけば拭き掃除もするし、茶菓子を用意しお持ち帰り頂く手土産も整える。

《あれこれの1》
度々であれば、面倒に思うこともあろうが、久しぶりほぼ十年ぶりでもあれば、心待ちにもする。ひょっとすると再びの来訪は無いかもしれないと思えば、まさに一期一会である。

事務所を閉めて既に十年余が過ぎ、訪いを乞う人もなく過ぎてゆく日々である。互いに重ねた歳月を慶び無沙汰を詫びる。整えた手土産は収穫したばかりの甘夏、朝採りの菜花、青梗菜菜花、子宝菜、いずれも暖冬のせいで盛りをもう過ぎつつある。蕪と大根と人参それに”柚餅子”を五荷ほどと銀杏一袋、どれもこれも鄙里での手作りである。

ご夫妻から頂いた手土産は、彼らの地元の銘酒三千盛の春しぼり、寿やの栗菓子などである。いずれも有り難く嬉しくいただきました。《酒だけは最近はまったく飲まないので、丁度居合わせた次男が島での飲み会に提供するからと喜んでぶら下げて帰りました。》

《あれこれの2》
こんな書き込みがSNSにあった。『子供のころは、経済的な事情で冬場口にするあらゆるメニューに白菜が混入していた。おとなになって自分で稼げるようになったら、白菜は決して買わないと心に決めていた。だけれど、己の加齢により「親は本気で旨いと思っていたのでは」と思えるようになった。』

同じような思いをしている。味噌煮込みうどん、切り干し大根の煮付け、銀杏等々、子供の頃は嫌いであった。今日も煮込みか、切り干しかと思ったものである。でも今や好物である。切り干し大根などは毎冬に作る、人参の切り干しまで作る。

年を重ねて好みが変わったのであろうが、当時と今では出汁や炊き合わせる品が良くなっているせいも大きいだろう。切り干し大根には油揚げだけでなく、帆立貝柱や地鶏を炊き合わせているから、当たり前に旨い。味噌煮込みうどんだって、味噌もうどんも具材だって1950年ころとは大違いである。当時の味噌は速成醸造味噌だったろうし、うどんは農協で片手間に作っていた乾麺だった。具材は油揚とネギだけ、鶏肉が入ることなど無かった。

《あれこれの3》
枯れ木立の鄙里雑木林を歩き、池の畔りの切り株に腰掛けて陽だまりを楽しみておれば、このまま崩れるように”お終い”にするのも悪くないなと思える。翌日にあるいは数日して見つける家人は大いに迷惑するだろうが、それも後腐れがなくて好い。ただその際に慌てて救急車を呼ぶのだけは避けてほしい。我が身を座敷などに安置してから、落ち着いて掛かり付けの主治医の手を煩わせてほしい。

救急時に行われる心肺蘇生措置は願い下げである。肋骨も折れよとばかりに、時には折れることもあるそうだが(肋骨より命が大事などと言うようである)、あれは四十代五十代なれば為すべき措置だろうが、七十過ぎに好ましいものではない。もう安らかに往かせてくれと願うのである。見送る側にしても、あの騒々しい数時間は落ち着いた通夜を壊してしまう。

《あれこれの4》
粉雪舞う風情はおろか風花程度の雪すら見ない此の冬である。大寒というのに平年値よりも十度近くも最低気温が高い。薪ストーブを愛用し、一冬用の薪を用意する作業を毎年秋の日課とする鳥取の友人がくれた手紙には「気持ちが悪いくらい暖かい」と記してあった。

常ならば、立春とは名ばかりの風の寒さよと言うのが決まり文句なのだが、今年ばかりは名前のとおりに春が到来する兆ししきりである。当地でも二月以降に収穫予定の菜花が芽吹き始めている。別の種類ではすでに盛りを過ぎた。蕗畑ではフキノトウが顔を出している。

家人は暖かいから過ごし易いと言うけれど、三月以降の天候が気懸りである。ナタネ梅雨が豪雨になりはしないか、上陸する大型台風が増えるのではないか、猛暑は耐え難い酷暑になりはしないか。

あれもこれも案じても詮無いことである。一個人ではどうにもなりはしないことである。酷暑にも超大型台風にも桁違いの豪雨にも独りが備える方法などありはしない。早めに避難しよう、エアコンを多用しよう、被害を受ければせめて莞爾と受けとめよう、こんな処か。

《あれこれの5》
昨日好し、今日好し、日々是好日。ずっと、”ヒビコレコウジツ”と呼んでいたけれど、どうやら”ニチニチ”と読むのが正しいようだ。禅語だから、軽く見えてその実深い意味が隠されているようだ。「不落因果、不昧因果、そして到る処青山有り」と玄侑宗久和尚は説く。

もう帰らない日々をアルバムファイルのスライドショーで懐かしんでいる。帰ることなどない日々は楽しいことばかりでもなかったが、辛い記憶も哀しい思い出も今となれば全て甘酸っぱいものばかりとなっている。時間は人の記憶が作り上げるものだそうだが、積み重ねた記憶の澱を揺るがせ甘酸っぱい時の流れに身を委ねていれば、是れもまた日々好日である。

なにやら索漠とする感じがまとわりついて離れないのは、重ねた記憶の澱(オリ)をいたずらにかき混ぜるからであろうか。浮き沈みする記憶の澱のなかに漂えば、帰り得ない日々が何やら甚振る(イタブル)のである。

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