慰問と云うこと

 一昨日から、12年ぶりの大雪である。日本海側を中心に各地で久しぶりの豪雪に、道路や鉄道に混乱が続いている。
茫猿も自宅から事務所まで通常なら30~40分で通勤できるところを、2時間近くかけて出勤している。昨日は、長良川に懸かる橋の取付道路で、ノーマルタイヤの車が立ち往生するのに阻まれて1時間を費やし、今朝は名神高速道路の閉鎖に伴い一般道路に溢れた車に阻まれて1時間を費やした。


 茫猿が居住する岐阜県安八郡は濃尾平野の西方に位置するが、伊吹おろしの風下にあり、福井県敦賀方面から琵琶湖を抜けて関ヶ原から濃尾平野に到達する、雪雲の勢いが強いと思わぬ降雪に遭遇することがある。
我が茅屋の庭も一面の雪景色である。景観を一変して美しい装いではあるのだが、雪が深くて池の鯉を見舞えず畑の野菜も穫れない状態にある。日頃は葉を落としたメタセコイアやケヤキに群れているヒヨドリやスズメの姿も見えず、静寂な佇まいが好ましい。しかし、2月の雪は湿気を多く含み、重量があるので木々の枝折れが心配でもある。
 雪見酒を楽しむ風流(ふりゅう)にはほど遠く、仕事に追われて雪道を出勤する渋滞のなかで考えたことが幾つかある。昨日の朝日新聞朝刊の地方版コラムに「慰問」についての記事が掲載されていた。
「慰問」というと、一般に健常者や社会的強者が障害を持つ人々や社会的弱者が生活する施設を訪問し慰めるという意味に使われることが多い。その弱者達(平均年齢70云歳の老人施設居住者)が、劇団を創設してホームに保育園児達を招いて観劇会を開催したり、他の弱者の施設を慰問したりしている。という内容の記事であった。
 茫猿も「止揚学園(学園の詳細は鄙からの発信を参照)」とのささやかなお付き合いのなかから、同じことを感じます。強者が弱者を慰問する、慰めるという姿勢は、強者の一方的な思い上がりではないのだろうか。第一、何をもって強者と云い弱者と云うのか。経済力か、身体的能力か、心身的能力か、年齢か、いずれも単なる個体差に過ぎないのではないのか。
 心身的にも身体的にも弱者の施設である「止揚学園」を訪れると、云いようのない元気を頂きます。それは、施しの満足感では決してなく、彼等彼女等と日常的に交流できる社会が到来するように「いわゆる強者」が変わらねばならないと思うのです。個体差のある者同士が共生できる豊かで奥行きのある社会が実現してほしいと思うのです。
 社会福祉にも今や同じ観点が求められている。国や自治体や団体や個人が施し的に福祉を提供するのではなくて、個体差の相違を補完するものとして、共生の手段として、助け合うという考え方が求められていると思う。世間的に云う経済的強者や肉体的強者や心身的強者が上方から弱者を助ける、時には施すという姿勢からは共生という考え方は生まれないと思う。
 別の云い方をすれば、加齢や経済力は誰にも付きまとうものであり、いつ何時に立場が変化するかもしれない危うさを秘めている。身体的個体差や心身的個体差も、強弱で捉えるべきではなく、たまたま多数を占める強者にとって都合の良い社会的仕組みが存在し、それが少数派である弱者にとって不都合を招いていると考えられないだろうか。
 多数派にとって効率的であるからといって、弱者を阻害し隔離する社会には、経済効率の向上は在り得ても社会的連帯感や共生感を育む土壌は生まれないと思う。施設を充実し弱者の生活を向上すれば事足りるという姿勢の持つ危うさが感じられるのです。
 いわゆる弱者を「歯車のアソビ」に喩えるつもりは毛頭ないが、効率を阻害するからと云って弱者を隔離しようとしたり別扱いしようとする社会には、精神的な豊かさがないと考えます。物質的な豊かさが満たされていても、精神的に貧しければ飢餓感は何処まで行っても払拭されず、いわば無限の飢餓地獄に陥るのではないだろうか。
街角で弱者を見るときに、憐れみや同情のまなざしでなく、単なる個体差(身長が高い低い、体重が重い軽い)として、その存在を受けとめ、共に今を生きているという価値観を共有したいものと考えます。
些か、大上段に過ぎましたが、「カクアリタイ」という茫猿の願望とお汲み取り下さい。

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