秋・南三陸路

10/04から10/05にかけて柳路の月を愛で、太平洋に昇る朝陽を拝んだ南三陸路の写真を掲載します。ルートは10/04仙台発・気仙沼線で気仙沼駅まで、そして気仙沼大島に渡り、その夜は気仙沼大島泊。翌日は小野寺氏のご好意で貌鼻渓まで氏の車でお送りいただき、貌鼻渓(ゲイビケイ)川下りを楽しみ、次いでタクシーで中尊寺と毛越寺を参拝して、東北新幹線一関駅から帰途に付きました。


10/04早朝の仙台駅気仙沼線のフォームで見かけた小学生のパフォーマンスです。詳しくは判りませんが、のぼりには「仙台柳生祭連」とありました。

こちらは同じ柳生祭連の低学年の踊りです。黄色いかけ声やステップがとてもかわいくて、見とれてしまう踊りでした。 ネットで検索しましたら、柳生祭連は仙台すずめ踊りに毎年参加している踊り連の一つであり、柳生小学校校下地区の子弟育成活動を基盤とする連のようです。

気仙沼線の線路脇にススキが乱れる秋景色です。場所は憶えていませんが、陸前豊里辺りと記憶します。

気仙沼駅です。気仙沼大島へは、一駅南の南気仙沼駅前よりフェリーに乗ります。

気仙沼駅前で立ち寄った観光案内所の所長さんが着ていた法被をお借りしてご満悦なのは、サイト上からの呼びかけに応じていただいた今回の気儘旅同伴者M氏です。

気仙沼駅から南気仙沼に徒歩で戻る途中で見かけた新聞販売店の懐かしいホーロー看板です。

大島での宿付近、田中浜の夕景です。

同じく田中浜の日の出前、海が黄金色に染まる朝景です。

田中浜に昇る朝陽です。

田中浜の北東方地獄崎の松越しに昇る朝陽です。

今回の気儘旅のハイライト・貌鼻渓川下りをご覧に入れます。 気仙沼から貌鼻渓を経て一関に至る大船渡線の運行本数が少なく、早朝に気仙沼港にお迎えいただいた小野寺氏のご好意がなければ、貌鼻渓川下りを楽しむのは難しかったことです。 貌鼻渓の流れは緩やかで、船頭さんが操る竿一本で川を上りそして下ります。

川下りの終着点です。ここから少し上流まで徒歩で行き、貌鼻渓の名前の由来である獅子岩の貌を見て舟に戻り、船頭さんの南部牛追い唄を聞きながら出発点まで下ります。渓谷は紅葉の時期には少し早いものの、色づき始めた樹々を缶ビール片手に楽しむにはちょうど良い季節でした。 前夜に仙台の皆様がお薦めいただいたことに相違はなく、眼福の往復舟旅90分でした。

貌鼻渓よりタクシーで中尊寺に向かう途中の山道で見かけたハサガケ風景です。運転手さんの説明によれば、伊達流が一般的な横ハサカケで、写真のような立てハサカケは南部流だとのことです。真偽は判りません。

平泉中尊寺金色堂の覆(オオイ)堂です。(金色堂は撮影禁止です。)

毛越寺の浄土庭園です。

『鄙からの発信』定番の蓋二件です。先ずは気仙沼市。

次いで、貌鼻渓の蓋です。

『追記』
鄙の堂守は陸奥が好きです。陸奥の山河と人々が好きです。 縄文の人々、アイヌの人々、そして(征服者弥生人の)歴史に俘囚の長と呼ばれて登場した「アテルイ」、「安部頼時、貞任」、そして藤原三代、いずれも渡来人の文明を有する弥生人に滅ぼされた(原住民)陸奥の人々です。 歴史は勝者のものであり、敗者の正当な歴史は語り継がれません。
近年では戊辰戦争における会津の歴史であり、南部の歴史がそうです。 ゆったりと渓谷にこだまする南部牛追い唄を聞きながら、ふと「壬生義士伝」終章の一節を思い出していました。 『吉村貫一郎は、故郷の山河を愛し、家族を愛し、義に生き義に死んだ男でござる。』 冬が厳しい土地ほど紅葉は美しいといいます。 米が穫れない土地ほど蕎麦が旨いといいます。 「岩手・宮城内陸地震」の風評被害に苦しむ人々の話を聞いた後では、気儘な旅人には美しい紅葉も、稔りのハサ掛けも、そこに暮らす人々にとっては厳しい冬の前触れにしか他ならないという事実に気付かされるのです。

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