優勝劣敗・適者生存

 昨日は百年に一度のクライシスとか未曾有のリセッションとかについて、なけなしの知識をはたいて考えてみた。 そのエントリーを読み返して、今の結果は優勝劣敗がもたらしたものという考えにふと及んだ。 優勝劣敗、適者生存、記憶に誤りがなければ、つまりダーウィンの法則である。環境に適合したものが生き残り、不適合だったものが滅びてゆく。 地球に人類が栄えたのは、ここ暫くの(四十億年中せいぜい数万年程度の短い期間)哺乳類なかでも人類に快適な地球環境が持続した結果に過ぎないという幸運に恵まれただけのことである。 拡大の一途を辿ってきた現存人類は、自らの拡大と膨張の結果に今や苦しめられつつあるとも言えると考えついたのである。 そんな大袈裟なことはさておいて、優勝劣敗・適者生存についてもう少し短いスパンで考えてみたい。


 優勝劣敗の法則は環境という与件によって変化するものである。 環境が一定であれば適者は生き残り拡大してゆき、不適者は滅んでゆく。 しかし、生物学的に見れば優勝劣敗の原理によって拡大し増殖膨張した過去の生き物は、時に増殖の結果として餌を失い、時に己の肥大化した自重によって自らを処し出来ずに滅んでいった。 もちろん、優者に適した環境が変化することによって、劣者が優位に立った例も多い。恐竜時代には日陰者であり夜行性を余儀なくされた哺乳類が環境変化によって地球上の覇者の地位を転じたのはその好例であろう。 サーベルタイガーやマンモスが滅んだのは自らの増殖膨張のせいかもしれない。 オジロワシやシマフクロウが個体数を減らし絶滅の危機にあるのは、食物連鎖の頂点に位置する彼らの適合環境が人類によって破壊されたせいであろう。
 さて、優勝劣敗という法則を社会経済現象を説明する原理として使われる場合がある。 新市場主義とか新自由主義がそれである。 平成の日本を席巻したグローバリズムや合理主義がそうであろう。 コストを可能な限り削減し、ひたすらに量的拡大を目指して市場優位性を増強してきたシェア第一主義や利益至上主義がその最たるものであろう。 でも改めて云うまでもないことだが経済活動というものは、経済行為そのもが目的でも目標でもなく、人の快適で文化的な営みを実現するための手段にしか過ぎないと云うことであり、それがいつか忘れられて経済的結果のみが目標や目的に転移してしまったのが、今現在と云えないだろうか。
 優勝劣敗・適者生存は否定しがたい自然界の法則であり、社会経済現象にも適合する法則であろうが、同時に昨日の優者必ずしも明日の優者とは成りえず、明日の優者は今日の劣者だったということも歴史の教訓である。 茫猿はなにも有為転変を語ろうというのではない、極限までの合理化がもたらす弊害について云いたいのである。 いつの時代にもどのような場合にも認められる劣者という存在は、敗れ去るためにのみ在るのだろうか。 そうではなかろうと思われる。
 
 今日の劣者という存在は明日の優者を生む種なのだろうし、何よりも劣者の存在を容認する社会の許容度の深さや余裕というものが、社会のゆとりや激変緩和措置になると思えないだろうかと云うのである。 
『追記』
 小児医療や出産医療について痛ましい事故が続発している。 三十年前の医療水準であれば話題にもならなかった事象であろうから、医療水準の進歩がもたらした陰とも云えなくはないのである。 もう一つ見落とされてはならないのは、無保険者の増加が児童にしわ寄せされていたり、出産医療費は医療保険外自己負担であることの弊害である。 低所得者は掛かり付け医師を持たずに緊急時のみ医療機関に駆け込むから、二番手三番手に扱われるし緊急性や危険性も増すという側面である。
 それが全てではないにしても、社会全体の余裕の無さが弱者にしわ寄せさせられていると云えるのであろう。 緊急時への対応措置とか余力というものは、平時においては無駄や不要に見えるのである。 もっとも良い例は自衛隊であろう。自衛隊是非論はさておいて、平時の自衛隊は無駄の最たるものであるが、阪神淡路大地震など災害緊急時における自己完結組織の頼り甲斐は何者にも代え難いものがある。 自らの衣食住を自らが満たし、さらに被災者支援の炊き出しから風呂まで用意できる組織は自衛隊という自己完結組織以外には存在しないのである。
 自衛隊が保有する過剰とも云える軍事力について今は語らないが、平時においては無用の長物である自己完結組織を維持していることが、災害緊急時にはとても頼りになるということ、すなわち社会が保持するショックアブソーバ、緊急対応手段というものの価値を再認識するべきであろう。 社会保障とかセイフティネットというものにまで経済合理主義や採算主義を持ち込んでしまった弊害が現れていると云えるのではなかろうか。 救急病院は暇なのが最善なのであるということに気づくべきであるし、暇な救急病院を維持することは社会的負担なのだと気づくべきである。 消防や救急医療や障害者施設に採算性優先論理を持ち込んではならないということである。

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