「であること」と「すること」

 丸山真男著「日本の思想」を読み始めて、というよりも購入してから数ヶ月になるのだけれど、殆ど読めていない。岩波新書200頁弱の小書であるが、何しろ難しすぎるのである。例えば冒頭まえがきにこのような記述がある。
《日本思想史の包括的な研究が日本史いな日本文化史の研究にくらべてさえ、いちじるしく貧弱であるという、まさにそのことに日本の「思想」が歴史的に占めてきた地位とあり方が象徴されているように思われる。》
 一見して平易そうな記述であるが、「日本思想史」とは何を指すのか、それは日本史や日本文化史とどのような違いをもつのか、「日本の思想」が歴史的に占めてきた地位とは何を云うのか、そのあり方とは何なのか。 読み止めて考えてみると判らないのである。 だいいち、日本の思想とはどのあたりをさすのだろうか。記紀や源氏物語から説き始めるのだろうか、それとも鎌倉仏教からか、江戸中期以降の国学などをいうのであろうか。 既にこのあたりでつかえてしまい、先へ進めないのである。


 メッセンジャーバッグにしのばせて持ち歩いているのだが、新幹線車中での睡眠薬以上でも以下でもない日々が続いてたある日のこと、あらためて目次を見直したところ、最終第四章は「『である』ことと『する』こと」と題されてある。ここならばと読み進めたところ、今こそ我々が読まなければならない記述ばかりである。 同書の奥付を見ると1961/10とある、半世紀近く前、十年一昔ならば五昔前の書物であるが、今に至るも新しい。だからこそ、世に丸山教などと囁かれるのであろうが、茫猿もこの「である」と「する」については思うところが多いから、考えてみる。いささか、いいえ多分に同書からの引用が多くなりますが、丸山氏の警句の新鮮さには茫猿の痴脳など及びもつかないから、やむを得ないこととご容赦下さい。
《丸山曰く》 学生時代に末広先生から民法の講義をきいたとき、(中略)権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないとう趣旨も含まれている。(中略)たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジックのなかには一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。
《不動産に係わる権利の対価を求めることを業とする不動産鑑定士には、初歩中の初歩的法概念である。》
 そして、丸山氏は憲法十二条を引用して「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」というのであり、憲法九十七条に言及して、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」とつなげる。
 さらに、こうも言うのである。この憲法の規定を若干読みかえてみますと「国民はいまや主権者となった。しかし、主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているという事態が起るぞ」という警告になっている。
 また、こうも述べている。「民主主義というものは、人民が本来制度の自己目的化を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものとなり得る。
 つまりは、こういうことであろう。民主主義とは面倒な手間ひまのかかるものである。会議や討論を常に重ねてゆかねばならないし、多数決論理だけを横行させることなく、少数意見にも相応の配慮をし、少なくとも発言の自由を形式以上に保証し、発言の意味するところを真摯に考える姿勢無くして、民主主義は成熟してはゆかないのである。「自者の自由」を謳歌するのは易しいが、「他者の自由」を尊重することは結構難しいのである。 「市民として自由」を行使することはさらに難しいと云える。
 「自由であると信じる人は、自己の思考や行動を不断に検証することを怠りがちであるが、自己の偏向性を不断に見つめている者は自身の偏見にとらわれまいとして相対的に自由になれる。」とも丸山氏は云う。
 市民としての自由について『である』と『をする』を説いたあと、丸山氏は政治・経済について『ある』と『する』について語り継ぐのである。『政治家(政治団体)である』ことと『政治に関わる(する)』こととは同一意義ではなく、対比する概念といってもよいのであり、政治家(団体)であり政治家(団体)らしくという考え方を蔓延するがままに放置しておくと、いつしか政治は国会や永田町の専有物の如く変わってしまいかねない。 政治(経済)というものは、政治家や政治団体に委ねておけばよいものではなく、市民が常に関心を有し考え発言し関わってゆかねばならないものである。でなければ、政治家以外の政治活動は、分限をこえたもの、在るべからざるものとなりかねない。
 《あるべき》とか《らしく》という論理は、いつのまにか市民の《する》自由を制約するようになるし、市民的自由の表現を疎外するようになる。つまりこういうことである。政治は政治家のもの、政治団体のものといった風潮が蔓延してくると、文化団体とか職域団体(鑑定協会など)は文化人らしく、職能人らしくあれとか、あるべきといった「アルべき論」にすり替えられてくる。政治を語ること自体が憚られる風潮が満ちてくる。 でもそうなのだろうか、人は市民として政治・経済に関心を持ってよいのであり、語ることが必要なのである。
 昨今の政治には家業としての世襲政治家が多くなっている。自民党国会議員などは半数近くなっている、数え方次第では半数を超えているのかもしれない。なぜそうなったかと問うてみれば、我々市民が政治は専門家のものとしてきた結果なのではなかろうか。世襲政治家が異常増殖したのには、他にも誘因があるのだろう。例えば、地盤・看板・鞄の相続、なかでも政治資金の相続が非課税であることなどは大きな誘因であろう。彼等が相続する政治資金の少なからぬ部分が政党交付金という税金であるにもかかかわらず非課税という「※※に追い銭」みたいな話である。 他にもお坊ちゃんやお嬢ちゃんが二代目三代目を襲名するほうが取り巻き連中にとっても甘い汁を吸い続けられるという実利もあるだろう。
 でも考えてみれば、二、三年に一回は巡り来る選挙のたびに、我々市民が確かに「政治する」をしてこなかった結果の累積が今なのであると言える。丸山真男氏が半世紀前に予言し、憲法が忠告してくれているのにもかかわらず、我々はその警告や忠告を無視してきた結果なのだと思う。 憲法九条がズルズルとないがしろにされ「まさに窮状を示すようになった」のも、我々の怠慢のせいであり、自由と民主主義という主権の座に居眠っていた結果にほかならないと言えるのであろう。
 丸山氏はこの章の終わり近くに、アンドレ・ジーグフリードの言を引いて、こう書いている。
《教養においては-ここで教養というのはいわゆる物知りという意味ではなくて、内面的な精神生活のことをいうのですが-しかるべき手段、しかるべき方法、を用いて果たすべき機能が問題なのではなくて、自分について知ること、自分と社会との関係や自然との関係について、自覚をもつこと。これが問題なのだ》
 教養というといわゆる物知り雑学王と誤解されるから、リベラルアーツと表現する。市民であるためには-ここで市民というのは職業人という意味も含めているのであるが-市民として何かをするには、リベラルアーツが欠かせないと思うのである。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」この規定のもつ意味を自らに問い直してみたいものである。権利の座にアグラをかくことのない市民であるということは「何をする」ことが問われているのか、求められているのか考えていたいのである。
 昔、「国民は自らの水準以上の政治家を得ることはできない。」と言った政治家がいた。「政治家に倫理を求めるのは八百屋で魚を求めるに等しい。」と言った政治家もいた。「猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちたらただの人。」と言った政治家もいた。警句にもならない片言隻句だが、言い得て妙である。
 中川氏の酔余の朦朧記者会見を見ていて考えたことであるが、衆参逆転という主権者の選択の結果としての議席数にもかかわらず、「ネジレ国会」などと奇妙な呼称を付けて、国会議員が会議し討論する職務を放棄しているかに見える状況も、専門家集団のアグラ現象と言えるのであろう。自らが属する職能組織についても似たようなことを思わされるのであるが、不動産鑑定士であることに安住し既往の業務に固執して、時流の赴くところを読もうともせず、不動産鑑定士である前に市民であるためのリベラルアーツがなんたるかを理解しようとせず、「自らする」ことをとんと放念しているようにも見えるのは、茫猿独りのヒガ目なのだろうか。 《この項続く》

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