老いの感じかた受けとめ方

”老いると云うこと”とする表題で原稿を書き溜めている。書き始めてもう二旬ほどになる。まだ公開する気にはなれず下書き保存のママである。今日の明け方、寝床でラジオを聞きながらふと思った。私の老いの感じ方は変わってきている。「老い」が他人ごとから自分のこととなり、心配ごとになり、時に怖れに感じるようになったのはいつの頃からだろうか。

 昨日は干柿と銀杏を手土産に叔母を見舞った。《1927年生まれ91歳になる叔母は、今やただ一人残る父の妹である。》盆前に見舞って以来に会う叔母は何故かひと回り小さくなったように思えた。それでも持参した干柿(渋は抜けているが半乾きで柔らかい)を”美味しい”と食べてくれた。

 両親が存命だった頃に”老い”は両親のものであり、自分の老いを僅かづつ自覚しないわけではなかったが、両親をおくり届けるまでは老いてはいられないと思っていた。老いは両親のものであり自らのものではなかった。時には、”元気なうちに体力のあるうちに、、、、”などと考えることもあった。

 両親が相次いで亡くなった時、私は66才だった。”老い”を自らのものとして心準備を始めたのは、両親の三回忌を済ませた頃からだったろうか。思いついて表題に”老い”を含む記事を検索してみると、次の六本が検索できた。

 老いが他者のものであり客観的なものであった六十代、身近なもの主観的なものに転じた七十代、寂しさは感じても怖れには至っていない七十代前半期、老いが怖れとない交ぜになる七十代後半期、つくづく八十の人の心境は八十にならねば分からないものよと実感させられている。

「老いの道づれ 2001.9.1:沢村貞子著の書籍名を表題とする」
 沢村さんがお亡くなりになる前年、1995年85歳の時に上梓された「老いの道づれ」という本を最近読みました。そして、改めてもう一度、沢村さんが好きになりました。彼女のような、彼女の殿のような(沢村さんは夫のことを殿と云います)、老境を迎えられたらいいなと思いました。是非ともそうありたいと願いました。

 スパッと自分の人生に区切りを付けて、余生を余生とせずに、淡々と日々を過ごしてゆく生き方、「誰の為でもない、自分の人生だもの」とでも云えそうな小粋な老境の楽しみ方を美しく素晴らしいと思いました。《再読しようと書棚を探したが見当たらない。いつの頃かに処分したようだ。この時、茫猿は58才、老境は他人ごとだった。》

「老いるということ 2007.3.3:黒井千次著の書籍名を表題とする」
 著者自身が1932年生まれで、刊行時74歳である。ギリシャ神話、古代ローマのキケロ、フォースター、楢山節考、ドライビング・ミス・デイジー、幸田文、耕治人、芥川、太宰、伊藤整などの著作を引用して「老いるということ」を語っている。

 何事に付けて低年齢化や幼児化或いは大人に成りきれないといわれる昨今においては、幼年期30年、青年期20年、壮年期20年、老年期10〜30年と考える方が正解なのかもしれない。(茫猿の読後感、この時茫猿は63才、自らを壮年晩期と考えていた。)

 老いることに型が存在したローマのカトーの時代、楢山節考の時代、ドライビング・ミス・デイジーの時代に対して、型が消滅しいつ果てるとも知れない老いが進行し続ける現代においては「老いるということ」に明解な解答は未だ得られないのである。

 いいや、老後すなわち「老いの後」という事象は実体として存在しないのであり、老いているということは生き続けていることに他ならないのである。確実に先に待つ死のみを思い煩って日々を生きるのも「老い」であるならば、今を実りあるものとして生き抜こうとする「老い」もあるのだと著者は説いているように思います。《この書も処分してしまったようである。》

「老いるということ 2008.3.25」
※掛り付けの歯科医に定期診療を勧められて
「老いて瑞々し 2009.1.16」
※斯界のうるさ方A氏の意外な一面について
「老いて学ぶ 2011.10.6」
※旅先の宿で偶々見た放送大学のこと

「これが老いなのか  2013.9.13」
 先月のこと 半世紀に及ぶ交遊を重ねた友ふたりが、相次いで病臥に伏した。二人のことを思うとき、これが老いというモノなのかと思いしらされている。M君(村北 弘君)は肺の組織が繊維質化するという、確かな治療の手だてが見つからない難病である。同年の友が臥している病床では語ることばさえ見失っている自分に、あらためて気づかされている。

 もうひとりの友 N君(中村博一君)が脳梗塞に倒れたという報せを受けてから、既に半月が過ぎた。 日帰りが可能な距離の病院に入院しているから、早く見舞いに行きたいのだが、ご家族からは「病状が安定したらご連絡します。」と言われている。

 考えてみれば、考えるまでもなく、僅かな行き違いから病床に臥す者と それを見舞う者との差が生じただけであり、明日は我が身というよりは一つ行き違えば病者と見舞い者は処を替えていたことであろう。 生き長らえることの意味とか、如何に死する為に如何に生きるかなどという戯言(タワゴト)は、息災であればこその戯れ言(ザレゴト)なのであろうと思い知らされる。 

 今 生死の境にいる者にとっては、生き長らえることのみなのであろう。それ以外は総てザレゴトであり世迷い事なのであろうと思わされるのである。 だからこそ たまたま病床にあり、たまたま辛うじて息災であることの差など無きに等しいのであろう。 それが老いるということなのであろう。(2013.10.14 村北  弘君逝去 2015.6.28 中村博一君逝去)

この頃に茫猿は七十代になり、長年親しくしてきた友人たちとの別れを経験し、寂しさとともに自らの老いや死を意識していた。
今年もツワブキが咲いた。秋深くなる。11月の初めに柿がこれほど残っているのは久しぶりである。昨冬に鶏フンを漉き込んだのが効いているようである。この冬も漉き込んで、来年は摘果をすることにしよう。

《追記 2019.11.07》10.27に亡くなられた樹下さんの奥様へ見舞いの手紙を書いた。密葬にて送られたとのことであり、弔問は喪が明けた四十九日過ぎのこととする。飛騨古川まで出かけるのを億劫にも感じているのが正直なところである。

親父の晩年に、小学校同窓生の葬儀に出かけないことがあった。車で送ってゆこうかと、理由を尋ねると「俺が最後になってしまった」と呟いたことがあった。生き長らえるということは、次々と親しき者に別れてゆくことでもあるなと思わされる。

両親を送り弟に先立たれて以来、村北、博一、佳宏、武田、下谷、樹下と相次いで見送った。ともに盃を交わし、よく語らった友たちは皆彼岸に旅立った。此岸に我が身のみ残れば、寂寥という言葉がひとしお身に染む晩秋の風である。

 

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