私と止揚学園とのお付き合いは、ある時に届いた学園を紹介する一通の手紙と、郵便振替用紙から始まりました。同志社大学の先輩(神学部卒)が恵まれない人々のために頑張っておられる。それも私の住む岐阜からほど近い能登川の町で、時に園生のウンチと格闘し、時に世間のいわれない偏見と闘っておられる。その時は、何かのお役に立てればという軽いノリと、たまたま懐に少し余裕があったことから、僅かなお金を振り込むことから始まりました。普通なら、それで終わったことでしょう。
しかし、暫くして届いたカラフルで丁重な直筆のお礼の手紙や、冊子「止揚」の記事が、今に続くお付き合いのもととなりました。と云いましても、年に一、二度僅かなお金を振り込むだけのお付き合いです。多くの支援者の皆様のように、物心両面にわたる手篤い御支援とは、程遠い傍観者に近いお付き合いでした。
数年そんなお付き合いが続いた後に、一度は学園を訪れてみたいと思うようになりました。冊子や書物で承知していても、実際にどんな施設なのか、どんな方々が暮らしておられるのか、この目で確認したいと思うようになりました。そこで、妻と当時中学生と小学生の息子二人と学園を訪れて、皆様にお会いしました。
その時の、止揚学園の皆さんと一緒に頂いた昼食後の、交歓の時間でした。園生のK君が私達にこんなお礼の言葉を語ってくれました。「森島さん、ミカンを沢山ありがとう。ミカンはきっと僕たちに会いたかったと思います。ミカンを僕たちの処へ連れてきてくれてありがとう。ミカンはとても喜んでいます。」思わず目頭があつくなりました。素晴らしい笑顔と素晴らしいお礼でした。それから、私達家族は止揚学園のファンになったのです。
私には、止揚学園の皆さんのような、麗しい生き方はとてもできません。日々の暮らしや仕事に追われる茫猿遠吠・華酔在夢の毎日で、学園を訪れることもなかなかできません。それだからこそ、ささやかでも止揚の皆さんを応援して、そのことで止揚の人々の明るい輝きや元気さを頂こうと、欲深く考えています。
毎年のお正月に岐阜県海津郡平田町「お千代保稲荷」の門前で寒い中を募金活動に努力されている皆さんにお会いしたり、学園を訪れて輝いている職員・園生の皆さんにお会いすると、大きな元気を頂きます。(他にもお多賀さんや、東寺でも募金活動はされています。お見かけする機会がありましたら、是非協力して下さい) そうそう、学園ギャラリーの園生の200号を超す貼り絵はとても大きな元気を与えてくれます。機会を見つけて一度、御覧になって下さい。
学園とのお付き合いは一方的に私の方が、「元気の受取超過」です。総リーダーの福井先生や園長の面条先生がいつもお話されているように、「人権尊重とは、強者が弱者を思いやることから始まるのではないのか。強者が弱者に、思いやりの心で譲るのが当たり前の世の中にしたい。先ず、私からそうしたい。」と折々に思うのです。
(この文章は、冊子止揚への提出原稿の加筆転載です)
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