表題の「いちばん長い夜に」とは、乃南アサ氏の最新刊である。
「いちばん長い夜に」 乃南アサ著:新潮社 は、「いつか陽のあたる場所で」、「すれ違う背中を」に続くシリーズ三作目である。 シリーズ三作目といっても、”おなじ釜の飯”から始まり、 ”ここで会ったが”、”唇さむし”、”すてる神あれば”と、一話完結のエピソードが綴られてゆく物語です。 芭子と綾香という他人には語れない過去をもつふたりの女が、東京の下町、谷中界隈でひっそりと暮らしている日常を、時にほのぼのと、時にサスペンスタッチで描いてゆく物語です。
乃南アサ氏の作品はその多くを読んでいる。 「鄙からの発信」を乃南アサで検索すれば2002.07に紹介する「はびこる思い出」に始まり、女刑事・音道貴子シリーズや「風紋」、「ニサッタ、ニサッタ」、「地のはてから」などなど、特に「風の墓碑銘」は記事表題として紹介している。
「いつか陽のあたる場所で」から始まる「芭子と綾香」シリーズは、女刑事・音道貴子シリーズとは趣が全く異なっており最初なじめなかったが、読み進むに連れて芭子や綾香の行く末に感情移入できるようになったものである。特に重い過去を背負う綾香に心穏やかな日々が訪れるよう願ったものである。 今、NHKドラマ10では「いつか陽のあたる場所で」が放映されている。既に8/10が放映済みであるが、再放送の予定もありまだまだ楽しめる。
このドラマでは芭子を上戸綾、綾香を飯島直子が演じている。上戸綾演じる芭子は原作のイメージを壊さない好演である。 飯島直子演じる綾香は少し美人過ぎるのが気になるものの、これも好演である。綾香の日頃の明るさ、能天気さの裏に抱えている、どうしようもないほどの心の重さとの落差が、ドラマの陰影を鮮やかにしている。
ドラマでは、「いつか陽のあたる場所で」、「すれ違う背中を」を原作として脚色の上でドラマ化しているようであるから、「いちばん長い夜に」はドラマには登場しないようである。 しかし「いちばん長い夜に」は、前二作の雰囲気をガラリと変えてしまうのである。
いちばん長い夜とは、2011.03.11から翌03.12にかけてのことである。 芭子が仙台で大震災に遭遇する時からの記述はそれまでの「乃南アサ」スタイルから大きく変わり違和感を感じるのである。どこかにホノボノさを漂わせていた書きぶりが、鋭さを伴った畳み込むような書きぶりに変じてしまうのである。
読み進みながら、どうしてこれほどに文体を変えてしまえるのか、とても気になって作者のあとがきや書評を読みたくなったのであるが、がまんして読み切ってから、あとがきを読んだのである。 そして「あとがき」で疑問が氷解するのである。
2011.03.11 乃南アサは綾香の出身地・仙台を取材するために、早朝から新幹線に乗って仙台へ向かっていたのである。 作者は「芭子と綾香」シリーズについて、あとがきでこのように云う。
芭子と綾香には、共に前科持ちという事情がある。罪を犯した代償として人生を大きく狂わせ、多くのものを失った彼女たちにとっては「取り立てて大きなことの起こらない日常」こそが貴重であり、かけがえのないもの違いない。それに、大きな事件など起きなくても、日常というものは、細々とした実に様々な出来事が積み上がって出来るものだ。同じ日は二度と来ない。
私は、このシリーズでそん彼女たちの日常を書いていきたいと思っていた。ささやかな日常を積み上げてゆくことで、物語スタート当初はひたすら自分を恥じ、世間の目に怯えて、まったく希望の抱けなかった主人公が次第に成長し、新たに生きていく希望を持てるようになってくれれば一番嬉しいと思っていた。だから、「あえて何も起こらない話」にしようと思っていた。
そろそろ、シリーズを完結させるに当たって、芭子以上に内面に複雑なものを抱えている綾香の本当の心を探り当てる手懸かりを探す為に、作者は事件の前に綾香が居住していた仙台を訪れるのであり、それが2011.03.11当日なのである。
《 2011.03.11 14:46 》その瞬間から翌日、東京に帰り着くまでの《乃南アサが実体験した》出来事は、ほぼ忠実に、芭子の体験したこととしてこの物語に盛り込んである。当初は、これまでのテイスト通りにあくまでも静かに、穏やかに進めようかと考えなかったわけではない。だが、あれはどの巨大地震を震源地近くで体験したこと、その時、何を見、何を感じ、その後、どういう思いにとらわれてどんな心持ちで過ごすことになったかを、きちんと書いておいた方がいいだろうと思った。
今回の地震は津波による被害があまりにも大きいために、津波に遭わなかった地域のことはほとんど報じられることもなく、忘れ去られた格好になっている。沿岸部の被災者の苦しみを思えば、自分たちは口を噤むより他にないと思っている人々も多いに違いない。福島第一原発の事故に関しても同様だ。危うく避難を免れたからと言って、笑っていられる人はいない。今回のことでは誰も彼もが、それぞれの環境にいて心に傷を負ったのだと思う。被災した人も、被災を免れた人も、情報として知るだけだった人も、あらゆるところの、あらゆる人が傷ついたのだ。それが2011.03.11以降の私たちの姿だ。そこから目を背けるわけにはいかなかった。
作者自身の実体験を下敷きにするからこその、文体の変化であり、表現の生々しさなのだと理解できたのである。 乃南アサという優れた表現者が3.11当日に仙台に居たということに「ある種の僥倖」とも「天の配剤」ともを感じるのである。 引用が長くなるが、あとがきはこのように続いている。
正直なところ、肉体的にも精神的にも、原稿など書いていられる状態ではなかった。それでも、私は書いた。書くために数え切れないほどあの日を思い出す作業は相当な苦痛を伴ったが、それでも昇華させる部分は昇華させ、追体験を繰り返し、簡潔な言葉を探し続けた。 私たち同様に「いま」を生きている設定の芭子と綾香も、あの体験を自分のものにして、さらに乗り越えていかなければならなかったからだ。
「いちばん長い夜に」はフィクションである。 しかし、作中の章「いちばん長い夜」は、まさにノンフィクションでありルポルタージュなのである。 だから、それまでのほのぼのテイストが変じて、昇華させ切りつめた文体に変わらざるを得なかったのであろうと思わされる。 これも一つの震災ルポなのだと云えるのである。
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