風の墓碑銘

 タイトルの「風の墓碑銘」とは、以前にも紹介した刑事音道貴子シリーズ(乃南アサ著)の最新作である。文庫本になったら読もうと思っていたのだが、昨日書店で単行本を眼にしたので即購入し、今朝までに一気に読み上げた。茫猿だって、城山三郎に内橋克人ばかりでは疲れる。


 手に汗握るハードボイルドタッチのストーリーが展開するわけではない。冴えない親爺デカと長身痩躯・意固地に自分を貫く女刑事が足を棒にして犯人を追いつめてゆく鑑捜査過程を追う物語である。男社会の警察組織のただ中で、女刑事とペアを組まされ「貧乏くじ」を引いたという親爺デカ滝沢の嘆きは、犯人にジリジリと迫ってゆく音道刑事の粘り強さに次第に賞賛へと変わってゆくのである。同時に滝沢の老練さに、音道も教わること支えられることの多さを次第に受け入れてゆくのである。

 「鑑捜査」とは、人または場所との、何らかの問わり合いを調べることをいう。土地鑑捜査といったら、犯罪の現場となった場所と犯人との結びつきを捜査することであり、たとえば付近の住民やいつも通る人物など、現場の地理に詳しいものを洗い出す作業から始まる。一方、敷鑑捜査の方は、親族や友人、知人、仕事関係など、被害者本人と何らかの関係のある人物を洗い出すことである。どちらも捜査用語だ。(風の墓碑銘より引用、鑑定評価調査とも相通じるところがあるようだ。)

 紺のパンツルックに白のブラウスが似合いそうな、カバー装画が示すヒロインの雰囲気は、読後に得られる爽やかでクールな音道貴子の残像と見事に一致する。

 直木賞を受賞した「凍える牙」でコンビを組んで以来なんども相方になった滝沢刑事について、作中で音道貴子はこのように云う。

 しばらく見ないうちに、滝沢は以前よりさらに全体が脂ぎつて、髪も減ったようだった。初めて会ったときには、ずんぐりむっくりの体型に、大きな腹を突き出してせかせかと歩く格好から、皇帝ペンギンのようだと思ったものだが、今回は何となく、ずぶ濡れで立ち歩きをするアザラシのように見えなくもない。

 そして、初夏の陽射しの中を報われることの少ない聞き込みに歩き回りながら音道貴子は、ふと目の前に顔をよせた滝沢が発する親爺臭をこう描くのである。

 貴子は、ちらりと滝沢を見てから、急いで視線をそらし、小さく領いた。だめだ。距離が近すぎて、すべてがアップで見えてしまう。目脂も。耳あかも。

 この辺りの表現は作者乃南アサ氏の実年齢(1960年生)が現れた面白い描写である。そして遠くイタリーに数ヶ月も旅行する「友人以上<羽場昴一<婚約者未満」を思う心境を次のように描写する。

 いずれにせよ、こんな風に気を操ませてばかりいるのではなく、時には安らぎを与えて、甘えさせてくれるのでなければ嫌だ。触れ合って、温もりを感じさせてくれるのでなければ、つまらない。そうでなければ、たとえ本心から望んでいるのでなくとも、いつか離れざるを得ないのではないかと思う。

『乃南アサ・音道貴子シリーズ』
1.凍える牙   96年直木賞受賞作、大型バイクで颯爽と追跡する音道刑事、セクハラをしまいとするが女性刑事の扱いに戸惑う滝沢刑事。【立読
2.花散る頃の殺人  音道32歳・音道刑事の日常を描く短篇集第一作 巻末に乃南氏と滝沢刑事の架空対談あり。
3.  エリート意識だけが強く無責任な相方の愚かさから拉致監禁される音道、音道の救出に賭ける滝沢・長篇第二作【立読
4.未練  短篇集第二作【立読】 描かれる音道の肖像はとても身近な感じだ。一人暮らしの女性刑事が等身大で描かれている。音道の日々が丁寧に描き込まれるなかに、何気ないけれど貴重な時間のすばらしさも浮き彫りにされる。(解説より抜粋)
5.嗤う闇  短篇集第三作、滝沢刑事の家庭の事情も明かされる。【立読
6.風の墓碑銘  長篇最新作 【立読】
 音道シリーズは短編も含めて刊行順に読むのが一番面白いだろう。滝沢刑事に皇帝ペンギンというあだ名を付けた由来、音道の家族、滝沢の家族、バツイチの経緯、羽場昴一との長いあれこれ、音道と大型バイクなど音道貴子の日常の全てが「風の墓碑銘」では物語の伏線や背景になっている。一作だけ読んでも十分に楽しめるが、過去作品を読んでいればなおのこと楽しめるのである。 風の墓碑銘は刑事物語として、徐々に犯人に近づいてゆく音道と滝沢の心理描写がとても面白い。推理作品としては犯人の底割れや動機の強引さなどが物足りない。でも女性が描く女刑事心理や女刑事を見る男刑事心理などの一つ々々の描写がとても念入りだから引き込まれる。
 ところで、墓碑銘・エピタフといえば、60歳が近くなった頃に零細とはいえ事務所を営む者の責務として何時かは知らないが必ず来る日に備えて、「書きおくこと」を用意すべきと考え始めた。いつ来るともしれない「お迎え」に備えて、事務所の後始末、葬式の次第、借財と雀の涙ほどの預金の整理など明らかにしておくのがよかろうと考えるのである。
『実は05/26にUPした時は「万ヶ一に備えて」と書いていた。でも今(07/05/30)読み返してみて、万ヶ一などではない。必ず来る、ただいつ来るかを知らないだけだと思い直して書き改めた。』

 特に自分の葬送に貴重な時間を費やして頂くのは固く辞退しようと思うようになった。もし私を悼むお気持ちがあったとしても、その場で軽く瞑目して頂ければ十分なのである。その為には遺族以外の理解も必要であり、延命治療辞退や臓器提供意思表示カードと同じく、無用の葬送辞退については遺言が必要と思うのである。だから最近は、毎年誕生日毎に何かを書き記すようにしている。そして、こういった自分の葬送次第や死亡通知を年月をかけて練り上げてゆくことも、文章の推敲が整うだけでなく、ある種の準備を整えるという意味からもそれなりに価値あることと思えてくるのである。
 とは云うものの現実には、いつ来るとも知れない己の死後のことなど指図の仕様もなかろうし、右に逝こうと左に逝こうと一向に構わないことなのでもあるし、知りようも止めようもない。現世ですら何も侭ならぬに、死後まで何を思い煩うやと云えば、当にそのとおりである。(南無三、オットドッコイである。)
・・・・・・いつもの蛇足である。・・・・・
 先に掲示する臓器提供意思表示カードであるが、最近のカードとは微妙に異なるのだが、違いが判るだろうか。[最近の意思表示カード]
 さて、この類(タグイ)の話を嫌味と受け取る方も少なくないし、似非とか欺瞞とか青道心とか野狐禅という誹り方もあるようだ。「そはそれでよし、まずは『こちら』をご覧あれ」 「いかがかな、ではこちらはいかが?!

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