連休後半、日ざしは初夏のものであるが風もあるから暑くはない。心地よい日である。
先頃植えた苗物の支柱を立てたり、種を播いた野菜の間引きをしたりして過ごしている。 鄙の陋屋は草が繁りだしたから、連休明けくらいには草刈りを始めなければいけない。 その下準備として昨秋に植えた桜の苗木まわりの下草を刈っていて、ふと思った。
その桜苗は三年前の花が終わったあと、種採りをして育ててきた大島桜の苗である。 この幼木が花を付けるようになるには、まだ数年はかかるだろうし、少しは見られる桜になるには少なくとも十年は要するだろう。 十年後の茫猿の様子など想像もつかない。 此の春に美しく咲いた桜のようになるには二十年は要するだろうから、私が眺めることができるかどうかもあやしいものである。
だから、どうだというのである。 晩年の母が口癖のように言っていたことがある。 「来年のことなど判らないから、木など植えてもしかたがないが、それでも今年やることをやっておかないと。」というのである。 この母の口癖が実感をもってわかるようになってきたのである。 来年のことはともかくとしても、五年後、十年後、ましてや二十年後のことなど、なんの支えもないのである。 でも、今やろうとすることを行っておく、何のためにと問われても答えられないが、今、陋屋を守っている者の務めとして、「為しておくべきと考えること」を為しておく。 別に悟ったわけでも閑寂の境地にいるわけでもない。 今ある者の務めだろうと考えているだけである。
不動産の鑑定評価という仕事を長らくしていたから、山林の調査や評価も何度かたずさわった。 山の土地を開発するについての価格評価はともかくとして、山を山本来の育林の土地として評価する場合や、それに伴う林木の評価を行う時にいつも考えさせられたことがある。
言うまでもないことであるが、宅地や農地の場合に、その収益計算は一年を単位として行うことが可能である。 賃料にしても企業収益にしても農作物の育成にしても、一年間で収益計算が完結できるのである。 しかし、山林の場合すなわち林業経営の場合はそうはゆかない。 植林をし、補植、下刈り、間伐、除伐などの長い期間の作業を経て、伐採して出荷できるようになるまでには、数十年から百年近いあるいはそれ以上の歳月を要するのである。
そういう現実を前にして何を考えさせられたかというと、どう考えても収穫を得ることがかなわないにもかかわらず、林業家は植林を続けるのだろうかということである。 大規模経営の林業であれば、毎年毎年植林する山があり伐採出荷する山があろうから、六十年とか百年を周期として考えることも可能であろうが、小規模な山持ちにとっては五十年に一回も収穫期は来ないであろう。 それでも営々として山仕事を続けてゆくとは、どういうことなのだろうかと考えたのである。
林業家に尋ねたこともある。 そんな時の答えは「先祖が植えた木を切らせてもらったから、子孫の為に植えるのだし、管理している。」 大概はこのような話を聞かされたと記憶している。 なかには自分の代には伐採収入がなにも得られない方もいたが、「それが生業だから。」とか、「放っておくと山が荒れるから。」などという答えも聞かされた。
茫猿が陋屋の桜や椿、そして畑を管理していることと同じにはできないけれど、人のサイクルと樹木のサイクルは違うものであり、手を加えた成果を見ることは叶わない場合も多い。 それでも「今できること、為すべきと思うこと」を、飽くことなく続けてゆく。 この飽くことなく続けてゆくということの意味はまだわからない。 それでも晩年の母の「今年やることをやる。」という口癖の真意が、いまだによくは判らないけれど、ただそれだけのこととして腑に落ちるのである。
陋屋はヒラドツツジが咲いている。ヒラドが終わればサツキが咲くだろうし、シャクヤクの蕾も大きくなってきた。 山法師が咲くのもまじかである。 青若葉を風にそよがせている鄙桜にはまだ青い実がついている。 月末には熟した実を採ることができるだろうから、今年も実を採取するのであろう。 昨年採取した実は苗床に播いてあるが、まだ芽吹かない。
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