身体の行く末:南直哉

流石、曹洞宗の傑僧にして霊場恐山の院代である。見事に”COVID-19”の蔓延に”晒される今”を喝破した。本サイトの読者諸氏も一度は読むべしと茫猿は考え、院代の綴る恐山あれこれ日記より『身体の行く末 2020.07.10 』を紹介する。院代南直哉和尚は斯く云う『我々は身体性の「消去」に向かうのか、「維持」を目指すのか。この岐路にいきなり我々を立たせたことが、現在のウイルス禍の「文明史的意義」ではないか。

 ひたすらに身体性(個別具体性)を消去して、デジタル化に、グローバル化に、邁進してきた人類は、今こそ身体性すなわちアナログ性との調和を求めたいと「院代:南直哉和尚」は申されていようと受け取るのである。和尚が院代を務める下北恐山や住職を務める越前霊泉寺から眺める景色は如何許りであろうかと思われる。

 この記事をFBで紹介したら、こんな書込みを頂いた。『さはさりながら、とりあえず、オリンピツク・リニア新幹線・万博の三点セットは、「高度成長よ、もう一度」という過去の亡霊であろうと、特に二個目が気になります(笑)中京の者ゆえ』

 返して茫猿曰く(2020.07.13)『リニアなんぞは、美しくゆとり有る生活には無縁なもの。それにこの三点セットは東京・名古屋・大阪を揶揄する寓意も含まれていようとは深読み過ぎか。』

2020.04.02 朝陽に映える我が鄙桜

 和尚はこう続ける。『人間の身体的欲望を実現する手段だったはずのお金が、それ自体目的化(資本の自己増殖)して、さらにお金儲けの手段だったはずの情報が、また自己目的化(情報社会)します。「キャッシュレス社会」とか「電子マネー」と言う概念は、まさに市場と資本が、もはやお金ではなく情報の自己増殖に依存していることを意味するでしょう。

 様々に読み解ける記事である。どのように読むかは読む者次第とも云えよう。しかし乍ら、デジタル化グローバル化とはひたすらに経済合理性を追い求めることに他ならず、それは個性とか個別性とかを消去し或いは埋没させることに他ならなかった。

 その誤った発現の一つが、最近にWebを揺るがせた『若者の労働力(供給能力)には限界があるから高齢者を念頭に命の選別は仕方なく、それをするのは政治だ』などと云う暴言であった。《参議院議員・木村英子氏》《安井美沙子・政治徒然草

 命の選別の極限的発現が相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた連続殺傷事件であった。最近は血液検査による「新型出生前診断」を受ける人が増え、命の選別が生み出されているとも云われる。新型コロナ騒ぎは人工呼吸器の不足を招き、結果として命の選別が行われる不安を招いている。トリアージ擬き(モドキ)が行われはしないかと云う不安である。

 最近に起きた線状降水帯による豪雨被害のような類似する被害が起きるたびに思わされるのは、身体的弱者が居住する施設が立地するに相応わしく無い場所が選ばれている理不尽さである。低湿地や忌地が選ばれることの多い理不尽さである。高台で陽当たりが良く風通しも良い、それでいてアクセス道路も通じている、そんな良好な住宅地が選ばれることなど殆ど無い。弱者対応施設の立地条件と経済合理性が相反関係にあることなど自明であるだけに、余計に理不尽であり遣り切れない思いがする。

 そうでなくとも、今度の新型コロナ騒ぎは社会的弱者、肉体的弱者により厳しいということにある。補償なき自粛騒ぎが蔓延して、真っ先に切り捨てられているのは、非正規雇用者であり、就職氷河期世代であり、母子家庭及び父子家庭世帯であり高齢者世帯であろう。肉体的弱者にも、とても厳しい風が当たっているだろうことは容易に想像できる。

 阪神淡路大震災(1995.01.17)で人々は、経済成長のみを追いかける愚かさに気づいたと思われたが、神戸の速やかな《見かけ上の》復興は、そんな思いを覆い隠してしまった。そして2011.03.11 東北地方太平洋沖地震の発災である。

2020.06.07 茅屋に咲く沙羅(夏椿)

 町並みを襲う大津波をTV画面で見て、多くの人は恐ろしさに震えたことであろう。自然の猛威の前に人の営みの儚さを思い知らされたことであろう。自らの生き方や人生観の転換を迫られた人も少なく無いことであろう。

 でもあれから間も無く十年が過ぎ、高台の造成、巨大防災堤防の築造、三陸鉄道の全線開通など見かけの復興は進んでいるが、復興五輪とは名ばかりで被災原発のあと処理は先が見えず、汚染水貯蔵タンクは増え続けるばかりで、福島被災地の荒廃は止めようが無い。

 愚かな我々が、今度こそ気づくことが叶えられようか。仏の顔も三度までと云う。神戸震災は大都市の災害であり関西都市圏域の被災であったが故のその後でもあった。福島震災は一度は原発依存から脱却が成るかのように思われたが、ベースロード電源重視の声に掻き消されようとしている。

 新型コロナ騒ぎがもたらすものは何であろうか。 ひたすらにデジタル化グローバル化を邁進してきた人類が、今こそ身体性すなわちアナログ性との調和を求めた身体性(個別具体性)を取り戻すことが出来ようか、それこそがこの先問われ続けよう。

 この話が分かり難いとお考えの方に、茫猿なりの噛みくだきを付け加えます。
デジタル化は個性とか個別性とかを滅却して、無機質な数値(多くは0or1)に変換してしまいます。グローバル化はその無個性体の集合であり、Mas情報化です。別の表現をしてみましょう。茫猿の父母の死去はアナログ個性であり、名前や法名や遺影など個人に繋がる多くの情報を有するこの世で唯一の父であり母である人の死亡です。

 ところが統計などではこのような表現となる。「1990 年代以降,高齢化の進展とともに,高齢者(65 歳以上)死亡数が増加し,高齢者死亡比率も上昇している。2010 年には高齢者死亡数が総死亡数の 85%を超え,高齢者の死亡状況が総死亡(全年齢)に反映される状況となっている。

 我が父母の死も、2010年総死亡者119万4000人のなかの85%の内の二人と、カウントされてしまうのである。そこには父母の面影など雲散霧消してしまっている。

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