軛の消滅と革袋の溶解-2

《前回に続く、投稿転載です。》


◆第二章 情報プライシングの変遷
▼歴史を振り返る
 情報生産者の中には「音楽家」というカテゴリがある。ネットでの情報流通が盛んになり、もっともその収入チャネルが脅かされているとカテゴリということもできる。
 ここでは、現在のようにメディアが発達するはるか以前の音楽家たちについて思い起こしてみることにする。
 現代にも「クラシック」としてその作品を多く残す、中世の偉大な芸術家たちの多くは宮廷や貴族たちの「お抱え音楽家」としてその生計を営んでいた。彼らは創り出 す交響曲一本いくらという代価を受け取っていたのではなく、定期契約を結び「交響曲を創造する才能」に対する代価を受け取っていた。
 現代と大きく異なるのは、その価値の源泉を「生み出された情報」に見出すのではなく「情報を生産する才能」に設定した点であろう。この点は非常に興味深い。
 また、彼らが提供するのは音楽のみでない。貴族たちはこの対価の支払いによって、「有名人のパトロン」というブランドも手に入れることができた(このあり方は現在でも残っている)。
 おそらく、これはメディアがほとんど存在しなかったことに起因するのではないだろうか。逆に言えば「本人自体がメディアであった」ともいえる。有名な音楽家に限らず、町を経巡り歩く吟遊詩人や、ニュースの配達人も兼ねる商人なども、人間がメ ディアであった一例である。この時代にも印刷物メディアは存在したが、まだ普遍的なチャネルとはなり得ていなかった。
 このような光景は、メディアの発達とともに次第に失われていった。情報がモノによって運ばれる時代が到来したのである。グーテンベルグに始まりエジソンに至る発明によって、情報はモノを媒介として複製されるようになった。情報の価値があたか もその器の価値、つまりメディア希少性によって決定される時代に変化したのである。
▼近代なる過程
 近代社会は普遍的な単位としての「貨幣」による価値の測定・交換を前提に成立した。もちろん近代以前にも貨幣は存在したし、同様の役割を担ってはいたが、近代ではその影響範囲が桁違いに広い。少々大げさな言い方をすれば、近代社会は全てを貨幣に置換することで成立しているのである。
 もちろんこれによるメリットは大きかった。コミュニケーションというものを「互いの価値の交換」であると定義するならば、貨幣なるメタ単位の投網を広く投げかけることによるコミュニケーションは、その範囲の拡大が容易であったからである。
 「世界は一つ」なる概念の誕生に果たした、貨幣の役割は極めて重要である。
 近代のもう一つの特徴は「細分化」という点であろう。近代は「構成要素を細分化することが世界への到達である」という信念に基づいていた。様々なポストモダニズムによってその信念は揺るぎ始めているが、現在でも大勢はここにある。
「定義」
 貨幣が普遍的なメタ単位として根付くことにより、価値交換の範囲は拡大した。
 構成要素を細分化して認識することが近代の欲求であった。
 そして両者が結びついたとき、近代は定義測定が容易な細分化された。ファクターに対し、貨幣をもって価値を決定するというポリシーを生んだ。
 これこそがまさに「中世」と「近代」の間にある価値測定の分水嶺であろう。議論の対象を情報に限定すると、価値の測定対象は「情報を生み出す才能」という曖昧なゲシュタルトにではなく、「既に生み出された個別の情報」に対してこそ行われるようになったといえよう。
極論を言えば、モーツァルトのような中世の音楽家が仮に今生きていたとしても、彼はレコードを売り上げて金を稼ぐことしかできないのだ。
 このようにして、情報は希少性の測定が容易な、様々なメディアによって流通されるようになる。現在の情報流通はここでその原型が完成した。
「定義」
 情報は細分化され、メディアという器に入れられることによって流通される。同時に、その価値はメディアという器の価値ごと測定される。
▼近代の妥協
 近代が目指したものは、「万人に通用する合理性」であった。前項で述べたやり方 は、少なくとも「万人が納得しやすい基準」ではあった。
 繰り返しになるが、このパラダイムを成立せしめたのは、貨幣の存在である。誰もが価値測定の共通言語として貨幣を用いることにより、つまりは単位を貨幣に限定することにより、社会はそのコミュニケーションコストを低減することに成功した。同時に測定対象をできるだけ細分化することにより、誰もが簡単にその測定を行えるように配慮したのである。 逆に言えば、近代はコスト減少を錦の御旗に掲げ、それを成立させるためにこれらの手段を用いたのでもある。
 そしてこの理念を成立させるために、近代はある妥協を行った。
 価値の測定にもコストは存在する。同時に、価値測定の対象を細分化すればするほど、そのコストは増大する。価値測定コストはあくまでも測定1単位につき定量的に発生するため、細分化によって対象が増えれば増えるほど、その価値とは無関係に測定コストは増え続けていく。
このため、近代では「価値はある程度まとまった単位でしか存在しない」という暗黙の諒解を行った。
 例えば、音楽を作成するアーティストの行為は、
 楽曲のモチーフを思いつく。
 楽曲モチーフをあるカテゴリーに配置する。
 カテゴリーの条件に従い、メロディーを思い浮かべる。
 メロディーを、再現可能な明示情報(楽譜)に置換する。
 楽譜を修正する。
 などの行為、実際にはさらに細かなファクターの合成であると推察されるが、多くの場合、価値換算されるのはこれらを総合した「楽曲」に対してである。あるていど大きな複合体に対して価値測定をしなければ、そもそもコスト的にそれは機能しな い。
近代はその他の理念よりも、コストなる概念を優先したのだ。
 このため「ファクターを細分化する」と前述したが、実際の行為は測定コストに見合うレベルでの細分化でしかない。現実には価値測定コストに見合う点まで合成できない価値は、そもそも測定されない。 このため、近代においては様々な情報価値が切り捨てられた。
▼問題点の要約と情報だけの価値
 いったん、考察した問題点を大きく要約してみる。
「定義」
 情報それ自体には希少性が存在せず、代替としてメディア希少性を用い、モノを取り扱うことを前提とした経済モデル上に乗せた。
 時間はコスト算定要因として重要ではあるが、情報の価値とは無関係である。
 貨幣という測定単位の使用を容易にするため、近代は情報の細分化を行ったが、コスト低減をも同時にテーゼと設定したためその細分化は妥協点にとどまり、逆に細かな価値の切り捨てが発生した。
 いずれにせよ、生業としての情報生産を成立させるには、どのみちその価値を貨幣によって測定していく必要がある。それも、従来のやり方とは異なるアプローチでメディア希少性に依拠することなく、細かな価値を切り捨てることなく、貨幣価値に置換できるやり方で。
 ここではそのための課題を、
 情報価値の特性
 情報価値の測定主体
 情報価値の測定方法
 情報価値のプライシング(=貨幣への置換)
 以上の点を策定することと定め、このための考察を行いたい。
(以下、三章に続く)

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