増上慢とラジカル

【只管打座・・増上慢とラジカル・・03.08.01】
 暑中見舞いに代えて、日頃想う由無しごとを二つ三つ。
『不動産鑑定士のレーゾンデートル』
 不動産は人間の生活と活動の基盤であり、その在りようが人間の生存の有り
様を規定するものである。
 とすればこそ、不動産鑑定士は社会の在りように鋭い視線を持たねばならな
いし、レーゾンデートル(存在理由)にまで至る審美眼を持たねばならない。
 すなわち、都市計画の在り様、公共事業の在り様、住宅の在り様、何よりも
農業や林業の在り様、等々に確かな視点を持つべきであろう。
 それらを持たずして、確かな鑑定評価などできようか。
我々は、いたずらに評価技術論に墜ちてしまってはいないだろうか。
 本来的に社会の木鐸であろうとする姿勢が求められているのだろうし、
それら基本理念を持たない鑑定評価は、有害無益なのではなかろうか。
『三無から六無』
 最近の若者は、無関心、無気力、無感動の三無と云われて久しいが、
今や三無に無理解そして無知と無恥を加えて六無と云えよう。
その由来をたどってみれば、三無世代は既に五十半ばを越えており、社会の主
流となっており、三無世代が六無世代を育てているのである。
 元を糺せば、今や逃げ切ってしまったリタイヤ世代が育てた三無世代であろ
うから、因果は巡る小車のということであろう。
『3S センス、センサー、スピリット』
 有事関連法案、北鮮問題、イラク派兵。
ショーザフラッグと云われてインド洋からアラビア海に渡り、今また入場券を
買って観戦する立場より、グランドに降りろと云われてイラクの大地にわたろ
うとする日本は何処まで行くのであろうか。
 よくよく考えてみれば、沖縄を始めとする駐留米軍は日本のためではなく、
アメリカのためにある。少なくともアメリカの利益が過半を占めるであろう。
しかも、その駐留経費として数千億円を毎年負担している日本。
 憲法がたとえ押しつけであったとしても、良いものは良いのである。
武力行使を問題解決の手段としないという理想を守り抜くことは、勇気が必要
であるし、誇らしいことである。決して臆病でも怠惰でもない。
 愛国心などというものは、教育されるものでも強制されるものでもない。
誇るに足りる国で有れば、社会で有れば、自ずと育まれるものである。
 こんな日々の事象を眺めていると、某日、ETVで美輪明宏氏が「古いか新
しいかという判断基準はナンセンスである。イイカ、ワルイカのみが私の判断
基準である。イイモノは新しくても古くてもイイモノだし、ワルイものは新し
くても古くても悪い。」と喝破していました。
 メケメケやヨイトマケの唄で一世を風靡し、今や切符が入手困難なロングラ
ン公演を続けている「黒蜥蜴」の彼らしい喝破だと感じ入りました。
 同じ頃、養老猛司氏が、「情報は変わらない、人が変わる」と説く、
「バカの壁」という本に出会いました。
 二十代に聞いた「ヨイトマケの唄」は新鮮さに唸って聞いた記憶があります
が、久しぶりに聞いたヨイトマケは涙が溢れました。ヨイトマケという情報は
変わりませんが、聞く茫猿は随分と変わったのでしょう。
 変わることを厭ってはならないと思います。
変わるためにも、身の回りに溢れる変わらない情報に対して、
確かなセンスと鋭敏なセンサーと、何よりも豊かなスピリットを、
失ってはならないと思います。
・美輪明宏、ヨイトマケの唄
http://www.beats21.com/ar/A01030501.html
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Piano/5479/essay/20030305_yoitomake.html
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Momiji/7805/songs01.html
『増上慢とラジカル』
 ラジカルという言葉は急進的という意味でよく使われますが、実は根幹的と
か根元的という意味が本来です。根元的主張や抜本的主張は往々にして現状維
持派からは嫌われますから、急進的という派生解釈が生じたのでしょう。
※数学で「根」「根号」をthe radical sign というのからしても、
ラジカル=急進という解釈は誤っていると云えましょう。
 茫猿が折々に記事を掲載する『鄙からの発信』は、
時として「増上慢」という誹り、いいえ御批判を頂きます。
自信過剰の、のぼせ上がりの、思い上がりも甚だしいと云うことでしょう。
そういった批判に思い当たることが無いわけではありません。
茫猿も時には反省しています。
 でも、考えてみれば、ラジカルな論旨は急進的であるよりも根元的、根幹的
であるからこそ、多くの人々の逆鱗に触れてしまうのでしょう。
衆生にとって(茫猿も含めての衆生です)、根幹に触れられることは安定を崩す
ものであり、忌避したいものだから、増上慢奴と切り捨てられるのでしょう。
 折しも、日経に連載の「高村薫 作 新リア王」は、佳境に入り、
「只管打座」にふれることが、多くなりました。
『暑中お見舞い(冷夏見舞い)』
 長い梅雨が明けて、夏が到来しましたが、立秋はもう間近です。
五十年も前なら、凶作の飢饉のと騒ぎかねない今年の天候です。
夏物バーゲンもなくして、秋物セールに突入しかねない景況を思えば、
涼しさを喜んでもいられません。
 我が家の畑も、桃は散り敷いた様に落果し、瓜も西瓜も蔓があがり
大凶作の様相を呈しています。
 例年ならうるさいほどに鳴く蝉の声も、今年は静かです。
 変わらず、ご購読頂いている読者諸兄姉に感謝申し上げまして、
茫猿は変わらず遠吠し、たまに只管打座続けてまいります。

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