鑑定評価への誤解

【茫猿遠吠・・鑑定評価への誤解・・03.08.22】
 相も変わらず、地価公示叩きや不動産鑑定評価叩きが横行している。


近く、2003年(平成15年)地価調査が発表されれば、公示・調査無用論や実態乖離論類似の似非論旨が横行するであろう。 それらは、部分的に肯定できるものもあるし、耳の痛いものもある。我々不動産鑑定士としても謙虚に耳を傾けなければならないと考えます。それでも、多くは実態を無視或いは無理解に基づく論調が多いものです。
Evaluation 第9号(2003年5月15日、プログレス刊)に、「鑑定評価基準は、無駄・無意味ではないか」と題する三國仁司氏が著す論考が掲載された一件があったが、この論旨にも類似の論点が多く見られた。これらに関して、畏友堀田勝巳氏が氏の主宰サイトに、的確な反論を掲載されている。是非ともお読み頂きたいものである。
私の主張 No.40 取引に役立つ鑑定とは?
私の主張 No.43 地価公示価格に対する誤解
※三国氏の論考に対しては、Evaluation 第10号に、茂木伸一氏が「市場主義一辺倒で本当によいのか」と題して、反論を投稿されている。これも併読されると宜しかろうと考えます。 さて、私が本日申し述べたいこと、その一は、不幸にしてまだお読みになっていない『鄙からの発信』読者に、堀田氏や茂木氏の論旨を紹介することである。 しかし、それのみが本旨ではない。堀田氏の論旨を読み理解すること、同時に三国氏の論考を読むことも大切である。それにも増して大事なことがある。 それは、それらの論考に素直に反応することである。
 先週の「週間金曜日誌」に、筑紫哲也氏が述懐していました。
「今、何が虚しいかと言えば、視聴者の無反応である。
   反論などよりも、はるかに怖ろしい気がする。」
 「ベツニ・・・、ドウセ・・・、関係ないジャン、ウザッタイヨ・・・」
繰り返せば繰り返すほど、篤く語れば語るほど、
無関心の殻に閉じこもってゆく多くの人々の在り様が、
不気味にさえ見るのでしょう。
 鑑定業界とて、同じ在り様でしょう。バブル崩壊後、叩かれても叩かれても、ひたすら既得権保持の蛸壺作戦に徹している我々はいったい何なのであろうか。それも作戦の一つというなら、それもよし。 でもそのような、コンセンサスに基づく対応とはとても見えない。
 九月下旬、公示価格公表後のマスコミ論調に対して、今度こそ鑑定協会として正しく、的確に反応してほしいものである。土地月間記念講演会開催もなにがしかの意味はありましょうが、全国紙全頁意見広告の方が本来的な公益性があると考えます。 マスコミの誤った批判があれば、それに対して、判り易く答えてゆくことが地価公示にとっても鑑定評価にとっても、大事なことであり我々の責務でも在ろうと考えます。
 『鄙からの発信』読者諸氏についても、前掲の二論考をお読み頂いたら、折々の機会に、話題として頂く。その小さな話題の渦が、やがて大きな潮流を形成して行くものとなりましょう。 堀田氏は、既に鑑定協会&業界において枢要な地位を占められつつあります。しかし、いかに氏といえども、無反応無関心の壁は厚く高いであろうと推察します。たぶん、こんなつぶやきが囁かれているのではないでしょうか。
「理論は理論として、でも現実はね。・・・・・」
 その昔、鑑定業界が幼かった頃、多くの青く熱い議論がありました。今や鑑定業界にとって、青春は遙かに遠く、朱夏は過ぎ去り、白秋から玄冬に差し掛かっているのでしょう。しかし、今こそ求められているのは老成した世慣れ論などではなく、青く熱い書生論であろうと思います。 其処から全て始まる。残暑に茫猿はまたまた思い至るのです。
・・・・・・いつもの蛇足です・・・・・・
 理想、理論、現実、超現実、ザイン&ゾルレン
ザイン【Seinドイツ】〔哲〕存在
 実体と属性とに分れ、前者は基体・本体のようにそれ自体で独立にあるが、後者は前者に付帯して依存的にある。また、実体には自然的・物的なものと、意識的なもの、さらに超自然的で非感覚的なものとがある。
ゾルレン【Sollenドイツ】〔哲〕当為
「あること」(存在)および「あらざるをえないこと」(自然必然性)に対して、人間の理想として「まさになすべきこと」「まさにあるべきこと」を意味する。当為にはある目的の手段として要求されるものと、無条件的なものとがあり、カントは道徳法則は後者であると考えた。 「広辞苑より引用」

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