年始、ご好意、麺打ち

『年始』 伊吹颪(オロシ)が顔に痛く当たり、田畑は薄らと雪化粧する年の始めである。この寒さの中で、海津市平田町のお千代保稲荷門前では、止揚学園職員の皆さんが年末年始を通して街頭募金活動をなさっているのである。雪空の下、茫猿は学園の皆さんに年始のご挨拶をするためにお千代保稲荷へ向かいました。

今年も何名かのスタッフの皆さんが、稲荷門前で大きな声を挙げておられました。「止揚学園です。知能に重い障害を持つ人たちに、心の連帯と温かいご支援をお願いします。」皆さんと年始のご挨拶もそこそこに、茫猿もお願いの声を張り上げて参りました。

『ご好意』 今年は、心弾む思いでお稲荷さんんへ向かいました。それは暮れにこんな便りが届いたからです。「冊子・止揚の記事を読みました。止揚が終刊するのは残念です。茫猿さんが新年も募金活動に参加されるなら、このお金を届けてください。」という手紙とともに届いた現金書留封筒です。有り難いことです。茫猿のささやかな支援活動がまた一つの輪を拡げたかと思えば、とても心なごむお便りでした。 この現金封筒をお届けし、学園の近況について様々なお話をしながらの、しばらくの募金活動でした。私のダミ声に惹かれて募金していただいた多くの参拝者の皆様、ありがとうございました。

お届けいただいた現金封筒
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稲荷門前での募金活動風景  IMG_0786

『麺打ち』 麺打ちに挑戦を始めている。 昨年末にふと思い立って、麺打ち道具一式を買い揃えた。 蕎麦打ち饂飩打ち修行の開始である。「鄙からの発信」でも麺打ちを始めたいと、以前に書いたことがあったが、延び延びになっていたのである。 思い発ったキッカケは単純である。孫が麺類なかでも蕎麦が好きだと聞いたからである。iCloudにも蕎麦を好んで食べている写真が数多く掲載されているのである。そこで一年発起して、次に鄙里に孫がやって来たら髭爺々の手打ち蕎麦を食べさせてやろうというのである。

四十代の頃に家族旅行の機会などに、二三度蕎麦打ち体験をしたことがあるが、それ以外に蕎麦打ちの経験は無い。ただ麺好きだから、蕎麦屋で親父が蕎麦を打っているのを何度もじっくりと見たし、映画「UDON:うどん」も見たから、門前の小僧程度の知識はある。そこで習うより慣れろとばかりに、蕎麦打ち饂飩打ちの挑戦を始めたというわけである。 なによりも孫娘の記憶の底に「髭爺々の手打ち蕎麦」という刻印を押せたらいいなという、いわば助平心なのである。

《道具について》 無職渡世の身であるから、たいした道具は揃えていない。ホームセンターで見比べた挙げ句、入門セットを購入したのである。麺台、麺棒、こね鉢、こま板、麺切包丁のセットである。麺打ちの腕が上がってゆけば、こね鉢はムクの鉢に買い替えれば良かろうし、包丁だって同じことである。実際問題として菜っ切り包丁の方が素人には使い易いかもしれない。 家人には「弘法筆を選ばず」と、嘯いたのである。

《最初の蕎麦打ち》 最初の蕎麦はオーソドックスに三七蕎麦を打てばよいのに、トロロをつなぎとする十割蕎麦を打ったのである。これが大失敗だった。トロロに含まれる水分量が計りきれなかったから、水回しに失敗し、コネルのも切るのも大変だった。そば粉がまあまあの品だったから、なんとか食せたが、ほとんどソバガキに近いものだった。翌日、残った蕎麦を蕎麦ゼンザイにして食したが、これは旨かった。

《二度目・饂飩打ち》まあまあの成功、二度の十分な寝かしを経て、ほぼ一日がかりの麺打ちだったが、釜揚げ饂飩で食した家人にも及第点をもらえた。

《三度目・年越し蕎麦》年越しに天ぷら蕎麦を用意した。蕎麦は二八蕎麦《そば粉8割、つなぎの小麦粉2割》、天ぷらは貝柱とニンジン、ゴボウのかき揚げ、それに畏友から暮れに届けられた呼子のイカ焼売のから揚げである。揚げ焼売、貝柱のかき揚げが佳かったせいもあるが、まあまあ結構な天婦羅蕎麦だった。

まだまだ、打つたびにウチムラがあるし、いかにも手打ち風に麺の太さがバラバラである。けれども打つたびに進化しているという実感もある。孫娘がいつやって来るかは定かでないけれど、それまでには十回いや二十回以上の体験を重ねているつもりである。 結構な手打ち蕎麦を食させて、彼女の記憶の底に「鄙の髭爺々の手打ち蕎麦」を刻み付けてやれるだろうと確信している年始なのである。

 

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