年越しの嵐過ぎ去りて

年末年始の喧騒の嵐が過ぎ去って、閑けさよりも侘しさがつのる日々である。2018/12/29夕刻に来岐して2019/01/07(休み明けの月曜日)午前に帰京していった長男一家の三名(長男だけは仕事の都合その他で5日に帰京)、元旦の午後に帰郷し三日の深夜に帰島していった次男、常は老夫婦二人の侘び住いが総数七名に膨れあがり賑やかというよりも騒々しかった鄙里なのである。

孫たちは来て嬉し帰って嬉しなどと、よく言われるが、齢七十五を迎えるようになると「来る前の迎える準備が楽しく」、「来て嬉し」は束の間のことであり、いつの間にやら帰京予定日を指折り数えるようになる。 老妻の家事疲れが心配であり、平時に戻ったのちの揺り戻しが気がかりなのである。若いものに合わせる食事、風呂もテレビも新聞も孫たち優先、隠居は隠居らしく傍らで生活することが許されず、息子や孫を客人として迎えるホスト役を務めることに草臥れる年頃になってきた。

父親が寝坊して居るから孫と二人でついた餅つきは、中途半端で不出来な強わ餅になり《強わ餅になってしまったのは、孫と遊んでいるうちに餅が冷えてしまい、十分に突けなかったせいである。私が力至らず搗き切れなかったせいではない。》、凧揚げならぬカイト揚げも焚き火も年末の降雪でままならず、混雑するショッピングモールで玩具選びや学習机選びに過ごすのみである。

2018/12/29早朝の鄙里雪景色である。 この日の夕刻、岐阜羽島駅へ出迎えにゆく途中の大藪橋は、スリップ事故で通行止めとなり上流の橋へ迂回を余儀なくさせられた。おかげで孫たちを岐阜羽島駅にしばらく待たせた。街路沿いのチェーン・レストランも回転寿司店も食事場所は混雑しているだけでなく、アルバイトなどの臨時店員が用意する食事は粗雑で不味い。家でお茶漬けか焼き餅の方が良いと思うのだが多勢に無勢で逆らえず。

孫たちの育ち方を見ていて、親の育て方を批判がましく思う時もあるのだが、その親を育てたのは他ならぬこの身だと思えば、孫たちの今は我が生き方の投影なのだと思わざるを得ない。因果の小車は巡り我が身に還るのである。何よりも聞き分けよく大人しくて手を焼かせない子供が優れているという訳でも無い。

とまあ、愚痴ばかりの正月過ぎ日記であるが愚痴ばかりだったわけではないし、何ものにも代え難い笑顔に癒される”来て嬉し”である。それに全国各地で訪ねる人もない田舎暮らしの老人世帯や都会の独居老人世帯の人たちを思えば、(帰って来なければ来ないで不満に思う)我が愚痴は贅沢な愚痴なのだ。

年末に魚豊で買い求めた「能登ブリ背の身四分一」は、背でありながら十二分に脂が乗っていて、刺身も照焼きもブリ大根もとても旨かったし、孫たちにも好評だった。用意した蒲鉾も数の子も田作りも帆立も黒豆も草餅も飛騨牛も明方ハムも綺麗に皆の胃袋に収まり、冷蔵庫は空になった。

父親だけが帰京した六日のこと、孫二人をショッピングモールで遊ばせた帰り道、夕食をどうするかが話題となった。何処かで食べて帰るか、ヨシズヤでお好み焼きの材料でも買って帰るかと話しているうちに、福束橋東詰めの「焼肉・勝美」の前を通りかかった。前から気になっていた店であるし、思い切って立ち寄ってみたのである。これが大正解だった。孫たちと嫁と老妻と和やかに美味しく食事ができた。半年ぶりにビールも飲んだ。

勝美は穂積只越の県道沿いにある家族四人で何度も通った店の姉妹店だという。店は小綺麗で肉もタレも旨かった、値段も納得できた。この正月のあいだで、能登ブリに次いで納得のできる美味い食事であった。以後、我が家の焼肉は「福束橋東の勝美」に決まりなのである。
《香り高く満開になった蝋梅と、随分と早くに顔を出した蕗の薹。》 

亡き友の一人息子圭吾くんから賀状が届いた。「父(博一)がいない正月は4回目ですが、未だに寂しいです。」と書き添えてあった。 畑で年末の仕残し作業をしていると、畑にいた在りし日の母や父を思い出す。9年が過ぎても母や父に会いたいと思うのだ。 私が思い出すあいだは、両親は私とともにこの屋敷に居るのだと思う。 圭吾くんへの賀状返礼に、「正月やお盆には、たくさん博一くんのことを思い出してください。皆が彼のことを思い出す間は彼は皆の中に生きています。」と書き添えた。

「延命治療謝絶」と「書き遺すこと」の二通に加筆推敲を加えた。同時に長男に仏壇の引き出しに仕舞っておくから、何かの時には読むようにと伝えた。「延命治療謝絶」は私に意識があれば治療拝辞するけれども、意識が無い時にはこの書を利用し「父の意志です」と申し出るようにと伝えた。「書面が遺されていないと、のちになってアレヤコレヤと迷うから」とも付け加えた。達者なうちに済ませておくべき終活をまた一つ仕終えた。

親鸞と道元:立松和平・五木寛之対談
孫たちと付き合っても所在ないショッピングモールで、本屋を覗いて見つけた一冊である。2018/11/10新刊の新書であるが、立松和平氏は亡くなっているがと思ったら、2010年刊行の単行本の新書版だった。孫たちが帰って閑かになった鄙里で読み始めたが、結構面白い内容である。

ラジオ深夜便では昭和44年頃(1969年、クロバーを退社し新居事務所にお世話になった頃)に流行った歌(青江三奈、佐川直美、クールファイブ)を流していた。朝の味噌汁に蕗の薹を摘み取ってきて入れようと考えながら、机の上の『親鸞と道元』を見ながらふと思った。まだ生きている生かされている、もうすぐ75才なのである。いつまで朝起きてキーボードを叩けるだろうかと思いつつ、いやまだまだとも思っている。近いうちに、博一の墓参に出かけよう、錦市場を歩いてフグあらを求めてこよう。

一つ、不思議なことに気づいた。いや不思議でも何でもない当たり前のことなのだ。それは、私が父母の歳に近づきつつあるということだ。父は97才、母は90才で亡くなった。父母が亡くなって9年、私は今年75才になり父と22才の差、母とは15才の年齢差となる。年毎に記憶している生前の父母の歳に近づいている。そして亡くなる前の父母の姿と、今の自分の姿を比べている。記憶のなかで年を重ねない父母と、年々歳を加えてゆく私がその姿を近づけてゆくのは当たり前のことであるが、何やら不思議な感じもする。

父の没年齢はおろか母の没年齢までも生き永らえるとは思いもしないし高望みもしないが、父や母のように亡くなる直前まで自分の足で確かに生きていたいとは願っている。2010年の両親の姿が私の願いであり目標なのである。そんな由無し事ばかりを考えていないで、畑に出て寒中に済ませておくべき仕事を済ませよう。

喪失感 投稿日: 
そうか、もういないのか 投稿日: 

畑に出たら、早咲きの紅梅が開いていた。紅梅について記しているアーカイブを検索してみた。1/9で数輪咲いているのは早いようである。アーカイブの紅梅開花記事の多くは1月下旬から2月上旬頃のようである。
此の春の梅   投稿日: 
梅香と水仙香   投稿日: 
梅一輪ほどの  投稿日: 
紅梅蕾     投稿日: 
木の芽起こし  投稿日: 
梅一輪、それでいいのだ 投稿日: 
雪中梅・母のセータ 投稿日: 

《アーカイブ渉猟から思い出して、セータを取り出してきた。大切にしまっておくことも大事だろうが、時季になれば着ることも大事だろうと思う。そしてそれが病をおして編み直してくれた母の思いに応えることであろうと考える。》

《2019/01/15追記》一つ とても大事なことに気が付いた。せっかく、私に連なる今の我が一族七名、私たち夫婦、長男夫婦と孫娘二人、そして次男が久しぶりに勢揃いしたというに、集合写真が一枚も撮れていない。撮ろうともしなかったのだ。思えば惜しいことをした。後になって悔やむことが無ければ良いのだけれど。

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