50周年止揚学園

10月14日は、五十周年を迎えた止揚学園記念の集いが開催された。

1962年9月29日に園児五名職員三名にて、近江八幡市内の廃寺を改造して開設された止揚学園は、1966年に能登川町の現在地に移転し今に至る半世紀に及ぶ歴史を重ねてきたのである。 記念の集いは昨年に開催を目指して準備されていたが、東日本大震災が発生したことから今年に延期して開催されたものである。

茫猿と止揚学園とのお付き合いがいつの頃に始まったのか、さだかな記憶はないが、二十年も前に当時中学生と小学生だった息子二人と家内を伴って学園を訪れたという記憶があるから、それにさかのぼる数年のお付き合いを加えれば、止揚学園とお付き合いしておおよそ四半世紀ということになる。 お付き合いのなかでの様々な出来事は、折々にこのサイトの記事としているから、今さらに改めて書き加えることはないが、今回の記念行事には設営のお手伝いをする次男、それに私と家内の三人で参加してみて思わされたことがある。 それは、止揚学園が様々な障害を乗り越えてよくぞここまで続き、そして成長されてきたものだという畏敬の念を伴う感慨をしみじみと味わったことである。 福井達雨先生をはじめ、光子夫人、面条さん、そして多くのスタッフの皆さんの努力と気力には、ただただ頭《こうべ》を垂れるのみである。

学園は様々なメデイアで様々に紹介されているが、茫猿が自分の言葉で学園を紹介するとすれば、「先ずは、明るい開かれた施設である。 スタッフも在園生もとにかく明るい。 そして心地良いもてなしを訪れる者に分け与えて下さる施設なのである。」 慰問を目的として訪れるのであるが、訪問者が逆に癒されるのであり、快い元気をいただいて学園をあとにできるのである。 そのことが一番現れているのが、食事時の訪問が歓迎されることであり、園生やスタッフの皆さんと一緒の食事を勧められるのである。 広い食堂に在園生やスタッフの皆さんと一緒に座して、同じものを頂くという食事は何ものにも替えがたい美味しく楽しい食事なのである。 少人数であれば予約もいらないし、時には偶々一緒になった訪問学生やボランタリー訪問の人たちとの語らいもあるし、もちろん学園の皆さんとの語らいや合唱遊戯もある。 学園で過ごす数時間はとても心地良いひとときなのである。

さて、記念の集いであるが、学園敷地内の空き地に、千人収容の大テントを設営して開かれた。とても幸いなことに秋風がそよ吹く好天に恵まれて、千数百人が集まり、隣席の人と腕が触れ合うほどのすし詰め状態でしたが、暑さを感じることもなく午前十時半からの礼拝で記念の集いは始まりました。

福井達雨先生の軽妙な司会で会は進行してゆき、社会福祉法人汀会理事会代表の挨拶を皮切りに、親の会、兄弟姉妹の会、在園者、主催者のそれぞれの挨拶が続いた。 なかで在園者代表のあいさつが良かった。 たどたどしい挨拶だが、一語一語しっかりと「きょうは、よくいらっしゃいました。 たのしんでいってください。」と述べてくれました。 会場から私語が絶え一言も聞き逃すまいと静まりかえったのは親の会代表者の挨拶でした。 我が子の幼児期の状態を語り、入園前の自らの気持ちを語り、園に入ってからの子供の成長とともに自らの心境の変化を語り、最後に「私は、この子を残して安心して死んでゆけます。 学園の皆様、支援者の皆様有り難うございます。」と結ばれたときには、茫猿の頬を涙が伝わってゆきました。

しばらくの休憩の後に、韓国から来訪された方 六名による韓国民族楽器へダムの演奏に続いて、集いの目玉行事である在園者による劇「ブレーメンのおんがくたい」が上演されました。 この劇は昨年のクリスマス会で上演されたのと同じ劇の再演でしたから、クリスマス会のときよりは進行も演技も上達していましたが、なかで一番上達していたのが、クリスマス会でも友情出演されていた流れ星役の東寺のお坊さんでした。 「私は星の王子様ではなく、星の坊主です。」というアドリブも会場の笑いをさそい、演技にも余裕が認められる好演でした。 《キリスト教系施設である止揚学園に、しかも毎年のクリスマス会に来訪される東寺のお坊様に花丸を差し上げたいと思います。》

司会役を務め、挨拶者に時間厳守などと注文を付けながらも、自らが、挨拶される方の紹介をエピソードをまじえながら軽妙に語ったり、挨拶にツッコミを入れたりと、時間オーバーの一番の原因は福井達雨先生の司会進行のせいで、予定時間を過ぎての昼食となりました。 「おなかが空いていたほうが、おいしい弁当がもっと美味しくなります。」という福井先生の注釈付きの昼御飯でした。 お昼にと提供されたのは米原駅井筒屋製の「湖北のはなし」という定評ある駅弁でした。 秋らしく栗御飯、鴨ロースト《とても旨い》、サトイモ丸煮、永源寺コンニャクの甘辛煮、煮豆、梅干、玉子焼などなどが詰まった、とても美味く上品な味の弁当です。 ハンドルを握っていますからいただきませんでしたが、クリスマス会などではそれだけは有料でしかもミニ缶しか出されない缶ビールが、この日は無料でしかもレギュラー缶で提供されていました。

昼飯のあとは、福井先生と止揚シスターズによる歌とお話しの時間です。 何年たっても涼やかな歌声を聞かせていただける「止揚シスターズ」の皆さん。 歳を重ねるごとにお話しに円熟味が加わるだけでなく、辛口トークは益々辛口になる福井先生。 学園の皆様が次の六十周年、七十周年を幸いに包まれて明るく和やかに迎えられるであろうことを念じて茫猿は学園をお暇しました。

止揚シスターズの賛美歌斉唱で始まります。131014shiyoo

歓迎のことばを述べる在園生かつみさん。 在園生の皆さんが静かに正座されています。 失礼な物言いかもしれませんし誤解を招くかもしれませんが、知能に重い障害がある人たちが長い時間正座を続けておられるということから、日頃の学園の在り様《ありよう》がしのばれます。 それは決して強制でも、体罰を伴う訓練の結果でもありません。 日頃の食事などの時間の過ごし方から、自ずと生まれてきた彼ら彼女たちの自然な立ち居振る舞いなのです。

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思わず涙した、親の会代表のごあいさつ。131014oya

福井光子さんの謝辞。131014mitsuko

韓国から来訪された方によるヘダム演奏。131014hedam

園生による「ブレーメンのおんがくたい」大団円。《中央後ろで、頭に星をいただいている方が友情出演の東寺のお坊様です。》

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福井先生と面条さんへ園生からのプレゼント、中央が面条さん、左端が司会進行する福井先生

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学園に始めてお邪魔した時に感じた印象を今でも鮮明に思い出します。 今よりは若かった女性スタッフの皆さんが、化粧っけの無い顔でにこやかに迎えてくれました。 キビキビと働く皆さんがとても美しくて、何より眼が輝いていました。 当時に比べて落ち着きを増し、私に向かう笑顔は旧知の友を迎える笑顔になっていますが、眼の光りと輝きは今も当時のままです。 しばらくしましたら、改めて五十年のお祝いと、美味しい食事のお礼を伝えに学園を訪ねたいと考えています。

《追記》 学園の在り様というか、皆さんの心構えを伝えることに「学園は手書きを大切にする。」ということがあります。 学園から届く郵送物の宛名や折々の礼状などは総て手書きです。そのなかには福井達雨先生の直筆のお手紙も含まれます。 今回の案内状宛名も手書きでした。多分二千あるいは三千以上の宛名を、スタッフの皆さんが忙しいなか手分けして書かれたことでしょう。 ワープロなどによる宛名印刷や印字シールが利用できないわけではありません。 宛名を手書きするということが学園の心を伝えることなのだと考えておられるのです。

学園の封書は〆で閉じられてはいません。 〆は×に通じると嫌い、○で閉じられています。 学園の園生とスタッフ皆の和を示す○、学園と学園に係わる皆の和を願う○で閉じられています。

学園は重い知能障害者の「タメに(何かをする)」とは考えられてはいません。 彼ら彼女たちと「トモに(生きる)」と考えておられます。 見えるものはいつかは消える、見えないものは永遠(とわ)に生きるという考えを大切にしておられます。

 

 

 

 

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50周年止揚学園 への1件のフィードバック

  1. 宮川 和彦 のコメント:

    50周年集会で、初めて止揚学園にお邪魔して、心が洗われる思いがしました
    皆様と同席出来たことに感謝いたします

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