23年前のこの日の朝早く、ズンと突き上げる揺れで目を覚ました。十年一昔と言えば二昔も前のことだが、三月になってから神戸に入った時、道筋の車窓から見る焼け跡の惨状が今も眼に浮かぶ。尼崎から神戸に至るあいだ、車内に漂う匂いも忘れない。
神戸は焼け跡の匂いだったが、3.11の後の四月に釜石、気仙沼、大槌町に行った時は津波の惨状と瓦礫の山が発する一種異様な匂いが漂っていた。これも忘れられないことである。あれから23年、受験生だった息子は二児の父親になっている。歳月の流れる速さなどとは言うまい。皆が起きた出来事を忘れないでいることが、復興のためにも大切なことだと思っている。
1995年1月17日5時46分52秒 発災した阪神淡路大震災当時、「鄙からの発信」はまだ開設していなかったが、発災時に一番近い時点で茫猿は何を考えていたかを振り返りたくて、アーカイブを検索してみる。
七年の長さと短さ 2002年1月20日《部分引用》
翌月から親元を離れて一人暮らしを始める息子の荷物を運んで町に入ったのは、渋滞を避けるためにまだ日の出前の闇の中でした。灯りが乏しいから暗くてよく見えないので町の様子は判りませんが、異様な臭いが車の中にも充満してきて、震災の雰囲気は十分に感じていました。 少しずつ明るくなって、見えだしてきた廻りの景色は想像を遙かに超えたものでした。TVや新聞で承知していましたが、現場に立つと云うことは、まさに「百聞は一見に如かず」でした。
遅れて鉄道でやってくる家族を待ちながら、彼が入居する予定の単身者用アパートの付近を歩き回ったのですが、崩れた家屋の廃材を積み上げたままの場所、崩れたままの木造住宅、多分焼け落ちた家の跡なのでしょうかスキーのストックと空き瓶に花が飾られた空き地、小公園には青テントの仮設避難小屋などなど、震災後既に2ヶ月近く経過していましたが、町の空気は震災の余燼をそのままに残している神戸でした。
あれから7年、もう7年でしょうか、まだ7年でしょうか。震災後7年目の特集番組を伝えるTV番組を見ながら、久しぶりに記憶を蘇らせていました。そして時の過ぎゆく速さを実感していました。あの日の早朝、床から突き上げる振動で目が覚めた瞬間に地震だと直感してTVを付けました。暫くして「関西方面で地震です。震度は不明です。」というテロップが流れました。それからの経緯は皆様の承知のものです。
学生時代から何度も訪れた神戸でしたが、三宮も元町もポートピアも傷だらけの神戸に変わっていました。あれから7年、上辺からは震災の傷跡は探さなければ判らなくなりましたが、独居老人の問題、震災孤児の問題、復興町造りの問題など、深層での傷は深くて、癒えたとはとても云えない状態のままのようです。《引用終り》
2011年3月11日14時46分18秒発災した東日本大震災の時には何を考えていたかを振り返ってみる。この時茫猿は3月1日から3月4日にかけて、秋田市、男鹿線、五能線、弘前市、津軽鉄道を巡る旅を終えたばかりであり、撮り貯めた写真を整理し、旅日記記事を書き上げている最中だった。《2008/10/04には気仙沼から平泉を訪ねていました。》
弘前城雪桜 2011年3月11日 (14:11:20 up)《部分引用》
この記事をアップする準備をしていたら、ユーラユラと幅の大きい揺れを感じたのでTVをつけたら、東北地方に巨大地震が起きたという。マグニチュード8.4という巨大さである。TV画面では仙台市南部の名取川流域を津波がさかのぼる様子(たぶんヘリからの中継であろう)を中継していた。 画面では一見して緩やかに見える波が、車も家屋も押し流し、破壊した建材などを巻き込んで濁流となって海岸から内陸部へと押し寄せてゆく様子が見える。 映画ではなく今起きている実写中継である。
濁流のなかに流されている人もいるだろうと思えば、とても痛ましい。 東南海地震による津波が伊勢湾に押し寄せれば、同じような光景が展開するのであろうと思えば、我がこととして背筋が凍りつく思いである。 亡くなられた方をはじめ、被害にあわれた方にお悔やみ並びにお見舞い申し上げます。
三陸沿岸などの被害は明日にならなければ判らないだろうし、新幹線をはじめ東日本一帯では交通機関が停止し、停電も広い範囲に及んでいると云うから、金曜日の夜は首都圏を中心にして帰宅困難者が出るなど大混乱であろう。 災害は忘れた頃に襲ってくるという格言を改めて思い出している。
津軽鉄道 投稿日: 2011年3月11日(20:00:33 up)《部分引用》
時間の経過と共にさらに大きくなった地震被害状況を知れば、こんな脳天気な記事をUPするのは気が引けるが、茫猿の備忘録でもあるので、手短に掲載しておく。《引用終り》
両記事ともに写真に短いコメントを付しただけの、茫猿には珍らしくとても素っ気無い記事である。茫猿の受けたショックの大きさをうかがわせるし、発災時に旅行記事を掲載することの被災地への心苦しさが読み取れる。その後に茫猿が何を考えたかどんな行動をしたかは「鄙からの発信」記事から知れることである。《 被災地の桜 投稿日: 2011年4月28日 》
【閑話休題】
平昌冬季五輪の開会式に安倍総理は出席しないかもしれないと云う。長い交流がある隣国の慶事に付き合えないと云う度量の狭さを嘆く。二年後には自国開催の東京五輪も間近と云うのに、近所付き合いもまともに出来ないのか。慰安婦問題が影を落としているのであろうが、慰安婦問題について韓国は日本に再交渉を求めているわけでも何かの具体的要求を突きつけているわけでもない。いわば韓国の内政問題に近いのであるから、さらりと受け流す余裕すらないのかと残念である。
北朝鮮の核開発やミサイル開発を阻止しようとするなら、小異を捨てて大同につく度量が求められるのであろう。ことさらに些事を言挙げするのは、木を見て山を見ないことであり、些事にかまけて大魚を逸するような愚かなことであろう。経済制裁を否定するのではない。制裁は制裁として、水面下では交渉のチャンネルを開いておくべきだと考えるのである。「問答無用」では何も解決しないと歴史は教えている。
同時に、三十八度線を挟んで休戦状態で対峙する南北朝鮮両国民の心情は日本海を挟む我が国には窺い知れないものがあるだろうし、太平洋を挟む米国や歴史的経緯が大きく異なる中露両国とも異なるものであろうと考える。バルト三国やブルガリアを行脚して北朝鮮包囲網を築こうと声高に言う事でもなかろうと考える。
昨年のノーベル平和賞を受賞した国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)事務局長が来日中である。安倍晋三首相との面会を政府に求めたが、外遊日程を理由に断られたと云う。ICANの尽力で実現した核兵器禁止条約に日本は参加していない。それでも、唯一の戦争被爆国総理としては会うべきであろう。「米国の核の傘」問題が背景にあることは理解するが、ICANに面会するわずかな時間も取ろうとしない被爆国総理の姿勢は理解できない。せめて官房長官が代理で会えば浮世の義理は果たせるのに。アメリカに忖度しすぎだ。
《2018/01/24 追記》
平昌五輪開会式への安倍総理出席問題について、韓国と北朝鮮の政治利用が目に余る状況が日々深刻になっている。この状況では総理が出席すべきだと簡単には言えない状況である。北朝鮮の政治利用が目にあまり、韓国がそれに引き摺られているように見える。
【窓のシェード越しに撮る今日のヒヨドリ】
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