前夜から付け放してあるラジオから、NHKラジオ深夜便が流れている。目覚めるでなく眠るのでもなく、うつらうつらと聞き流していると午前五時に少し前のこと、【絶望名言】のコーナーで「安部公房」と題して「文学紹介者:頭木弘樹」氏が語っていた。
そのお終いに、頭木氏はこう語った。「新型コロナ感染症騒動で家に引き篭もることを求められている、こんな時にこそ”軽い気晴らし”でなく”重い書籍”を読むことをお勧めする。」
そこで親父の本棚を思い出した。親父が居なくなって既に十年、読み継ぐ気にならないことから、地元町の図書館に引き取って貰えないかと話を進めていたのだが、コロナ騒ぎでその話も中断して三ヶ月が過ぎた。
親父の本棚は古今新古今西行などの和歌集とその解説書、芭蕉を中心とする俳諧関連書籍、そして親鸞、蓮如、法然、道元などの仏教関連書から構成されている。一つ一つに興味が無いわけでもないが、改めて読み始めようというほどの気にはならなかった。そのなかで最も重そうで取っ付き難くそうな本が「歎異抄」関連書である。
何冊かを埃を払って書棚から持ち出してから、ふと奥付を眺めて気がついた。いずれも1990年から1994年にかけて発刊されている。昭和末期から平成初年度にかけての時期である。バブルが騒がれその終末を迎えた頃である。その頃に親父が何を考えて歎異抄に取り組んだのかは判らない。判らないが親父77歳の頃、ちょうど今の私と同じ年頃である。
奥付の日付順に買い求めたとは限らないし、書き込みが有り読み込まれて傷みも見える書から数え上げれば、金子大榮、梅原猛、紀野一義の順になろうか。私もこの順に読み始めてみる。
「誤解された歎異抄:梅原猛、光文社 1990/01/30初版1刷」
「歎異抄・仏教の人生観:金子大榮、法蔵館 1990/05/20第2版11刷」
「私の歎異抄:紀野一義、筑摩書房 1990/07/15初版15刷」
「親鸞の核心をさぐる:佐藤正英他、青土社 1992/01/10初版1刷」
「親鸞と道元:ひろさちや、徳間書店 1994/09/30初版1刷」
そうは記したものの歎異抄は手強い、なかなか読み進めない。最近は30分も本を眺めていると眼が痛くなる。右と左の視力差が原因だろうと思うが、眼鏡を調製するほどのこともなかろうと放ってあるから、読書がますます苦手になる。こういうキーボード印字だって目にはあまりよくない。
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