松もとれて

三ヶ日に届けられた賀状が百余通、暮れに出した賀状も百通余り。賀状には「年を重ねて、この賀状限りにて年始のご挨拶を終わります」と、書き添える葉書が何通かあった。暮れにも時候の挨拶に添えて年賀ご無礼の添え書きをする葉書が数通届けられた。

今さら、賀状発信先が増えるわけもないし、増やす気もない。我が存在証明とし発信してゆこうと考える賀状であるが、先様が亡くなればやむを得ない。止めにしますという相手に存在証明とはいえ賀状を届けるのは如何なものかと考えるが、それはこの2020年暮れに考えれば良いことであろう。

年末年始滞在した孫たちに餅つきは喜ばれなかったが、雑煮は食べてくれた。焚き火で焼いたサツマイモも好評だった。孫たちが帰って静かになった鄙里である。雑木林を歩いていて、落ち葉や枯れ枝を集めて焚き火で遊んだ彼らの写真を一枚も撮らなかったと気がつく。彼らが怪我でもしたら大変なことになるから、目線を切らさないように追いかけるのが精一杯だった。写真どころではなかったのである。

年末に訪れた客人に「野良仕事もほどほどに、身体をいたわって」と見舞われたあと、「貴方が居なくなったら、この畑や林はどうなるのですか?」と問われた。彼に限らず訪れる知人友人は異口同音に我亡き後を心配してくれる。

私にしてみれば、亡き後など知ったことかと思っている。畑や林や小さな家屋をできるだけ綺麗にと管理しているのは、偶に訪れる孫たちの遊び場をと云う思いの外に、愚息というには年とった息子たちにとって「シェルター」の用意という思いがある。

シェルターが必要なまさかの時など来ない方が良いに決まっている。でも動けるうちは美しく整えていたいと思っている。何よりも自らが暮らす場所である、美しければ暮らしも豊かなものになる。そのうち、息子たちの余生を過ごす場にならないとも限らない。

孫たちが帰ると同時に、入れ替わるように縁者の訃報が届いた。訃報ではありながら、家族のみで静かに送りたいと云う”訃報”である。故人の遺言によるとのことだが、無宗教かつ”無葬式”にてと云われる。先様のご意向だから何ともし難いけれど、告別の儀式無しはなにか侘しい。せめて献花でもして礼拝をと思うのも”余計なお世話”なのだろう。

《追記》結局のところ、湯灌、納棺、出棺に立会いというか参加して、「葬い(とむらい)」の儀式的心理的けじめは付けられた気がする。親族の多くが納得というか腑に落ちたというべきか。

葬い終えて帰りきた鄙里を眺めれば、我と老妻だけが余生を過ごすには勿体無いくらい佳き畑と雑木林なのだと思えてくる。今は菜花を摘み蝋梅の香りをきく。やがて梅が香り桜咲き、猫柳も雪柳も紫陽花も椿も慰めてくれる。

春にはアスパラやエンドウを夏には茄子やトマトを収穫し、桜桃、桃栗、枇杷、ブルーベリー、キウイ、無花果、柿、蜜柑に恵まれ、金銀木犀の香りに包まれ、幾許かの芋を掘り、山茶花を眺め年を越す。今は干上がっているが野池も池に掛かる橋も池端の灯篭もそれなりにはある。それらを汗を拭きながら守り、それらに囲まれる”長閑な”暮らしである。

BSの元旦映画放映を録画しておいて見ている。なかで寅さん第一作を久しぶりに見た。志村喬演じるヒロシの父親諏訪飇一郎(ヒョウイチロウ)の挨拶、挨拶の間の取り方、トツトツと語る志村喬、それに深夜の柴又帝釈天参道で渥美清演じる寅さんが唄う「”喧嘩辰”・”殺したいほど惚れてはいたが、指もふれずに別れたぜ」。(今朝の伊吹山、桜の蕾はまだ固い。)

寅さんはもとよりさくらもヒロシもおいちゃんもおばちゃんも皆若かった。さくら(倍賞千恵子)も冬子(光本幸子)も若くて美しい、考えてみれば50年も前だ。寅さん第一作がこんなに良い映画だったのだと改めて気づかされている。20年前、30年前には笑って見てただけの「寅さん」だが、涙腺が緩んだ此の頃とはいえ目頭を潤ませて見ている。                        
(鄙里雑木林の中で、万両の紅い実、万年青の朱い実、咲き始めた水仙。)

《追記》寅さん17作「寅次郎夕焼け小焼け」にて、 岡田嘉子さんが宇野重吉さん扮する昔の恋人に述懐する名台詞、「人生に後悔はつきもの、あゝしなかった後悔、あゝしてしまった後悔」

太地喜和子扮する芸者ボタンと”さくら”(倍賞千恵子)の遣り取りを観ていて思わされた。倍賞さんは寅さん48連作を通じて数々の名女優と共演することで、自らの演技に磨きがかかったのだ。

 

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